山中鹿之助・供養塔

  西区草津本町の浄教寺に建立されている「山中鹿之助・供養塔」です。
正信山・浄教寺は、鈴が峰(佐伯山)正信谷にあった禅宗・観音寺が天正20(1592)年現在地に移り浄土真宗に改宗したので山号が正信山になったといわれています。
山中 幸盛 (やまなかゆきもり:1545-1578)
出雲国能義郡(現・安来市)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。通称:鹿介。[講談などで鹿之助とされたため山中鹿之助(しかのすけ)で知られる]
1566(永禄9)年第二次月山富田城の戦いで落城後、尼子氏旧臣の中心となり、「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」(この逸話は講談で語られる)と主家再興を目指して活動。
一度は出雲へ侵攻するが毛利勢に敗退。その後は織田信長を頼り、羽柴秀吉が播磨に出陣の時先鋒として最前線の上月城を任され、毛利勢の大軍相手に篭城戦を展開。しかし、援軍に駆けつけた羽柴勢は毛利勢と睨み合いを続け、そのうえ信長の命により撤退。1578(天正6)年孤立した上月城は開城し、鹿之助も捕らえられ、護送途上の備中にて殺害された。
ここ浄教寺(浄土真宗)から約250m北の]海蔵寺(曹洞宗)に山中鹿之助の二女盛江の墓がある事を2007年交流ウォークの時に教えていただき、頁を編集していました。
その頁を見た方から『山中鹿介の供養塔が昭和52(1977)年子孫の山中豊子さんにより四百回忌供養として浄教寺に建立されていますよ』とメールを頂いたのです。2010年になりましたが訪ねましたので、山中鹿之助の供養塔を撮影し、この頁を編集しました。
供養塔の根際に「吉和屋山中総本家墓跡]という石碑が建立されています。見ると、海蔵寺へお墓を移したのが昭和12(1937)年ということが刻まれていました。以前「盛江の墓」を調べているときに知ったここ浄教寺から海蔵寺へ墓所が移された年代の裏付けができたなと思ったのでした。
10.07.26裕・記編集

10.05.01.撮影


























殿
鹿










鹿













歿

10.05.01.撮影
広島市西区草津本町1-22  浄教寺































10.05.01.撮影

10.05.01.撮影





















1977

10.05.01.撮影



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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