草津城阯

  草津城跡(城山)は、山陽本線(1898年)と広電宮島線(1923年)の開通により三分されました。戦国時代は西に海老山・厳島、南は能美島・江田島、東は五箇荘(広島)・江波山・海田市も見渡せる重要なところでありました。草津城がいつごろ出来たかハッキリしませんが、1456(康正2)年武田信賢が草津城を攻め落とし改築して城としての形が整ったと云われています。その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)→児玉就英→児玉元昌と城主は変わりました。関ヶ原の戦の後毛利氏は長州に移り福島正則が広島城主となると正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したといわれています。
児玉周防守就方は、毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、毛利水軍の将でもありました。就方は厳島の戦で毛利軍の船大将として手柄をたてて草津城の城主になりました。その後織田信長が石山本願寺を攻めたとき毛利氏の水軍の将として就方の長男・就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺(後の大坂城)にとどけたといわれています。就方は、天正14(1586)年74歳で死亡し、・就英(なりひで)が児玉家第二代の草津城主となりました。         
草津まちづくりの会
交流ウォーク関連で何度か訪ねている草津地区で草津城跡があそこですよと教えていただいていたのですが、その草津城跡に碑が建っていると教えていただいたのですが行ったことがありませんでしたので、2007年6月交流ウォーク草津地区がはしまる前に行ってみたのです、草津城跡からは展望が開けては云えず石碑を撮影して鉄道側に下りてきました。
08.10.01裕・記編集

07.06.06撮影
広島市西区田方1丁目8 (草津地区)

07.06.16撮影

07.06.16撮影

07.06.16撮影
草津城跡への道

07.06.16撮影

07.06.16撮影
草津城阯・石碑   昭和10(1935)年6月9日建之

07.06.06撮影
草津八幡からは山陽本線で草津城跡が別れたことがわかりました



「古墳遺跡遺構など」編
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