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西区草津南に過って開店していたという「大石餅」その跡を取り上げました。 |
江戸後期・文政年間(1818〜1829)に播磨屋惣右衛門とお国の夫婦が餅商をはじめた時店頭に大石があり、大石餅と名付けたことがはじまりといわれています。
昔の山陽道は、城山が海岸まで突き出ていたので、大門を通ってこの大石のある海岸に出たものと思われ、この付近は広島港を一望のもとに見渡せる景色のよいところでありました。旅人はここの茶屋で一休みして大石餅を食べ次の旅への元気を出したものと思われます。 |
当時の井口・皆賀峠は山陽道中(第1の)難所といわれ、このあたりの草津港は良港だったことから津和野藩、浜田藩、三次藩の船入場があり、江戸時代の草津は広島の西の玄関として京都・大阪への海の玄関として栄えていたと伝えられています。 |
平成10(1998)年大石餅は惜しまれつつ閉店した。 草津まちづくりの会 |
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当初は、片手間の商売で微々たるものでしたが、其の子夘助ははじめ村役場の筆生を務め餅屋は副業でしたが後、志を起し餅屋を専業とし、原料の選択製造方法に独特の工夫をし品質風味が改良して名声を揚げ、明治27(1894)年9月明治天皇が広島に大本営を進められた時、北條侍従をして毎日御買上げの栄に賜りました。
明治18(1885)年8月明治天皇献上。 明治27・28(1894・95)年明治天皇御買上。 大正11(1922)年高松宮殿下御買上。 大正15(1926)年5月皇太子殿下献上。 昭和22(1947)年12月・昭和26(1951)年10月天皇陛下献上。
平成10(1998)年大石餅は惜しまれながら閉店された(そうです)。 |
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2005年交流ウォークの時ここ大石餅店跡を教えてもらい頁を編集しました。
2010年交流ウォーク下見の時改めて撮影しましたので、跡地に設置されている説明板の記述もまちづくりの会の説明文にない部分を取り上げました。また、草津公民館の館内に(大石餅を搗いた)石臼が展示されていましたので、撮影していました。今(2011年)になりましたが、HPを引越していますので、頁を更新しました。 |
11.10.23更新 05.06.22裕・編集 |