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西区井口鈴が台に(平成になって)再建された西国街道「龍神山一里塚跡」碑です。 |
西国街道 いのくち歴史の散歩道 「一里塚跡」 平成21(2009)年11月井口・鈴が峰魅力さがし委員会 |
一里塚は、江戸日本橋を基点に、各街道の一里(≒4km)毎に目印として設置された塚です。1604(慶長9)年将軍・家康は、全国の街道に一里塚を造るように命じ、塚の大きさは約9m四方、高さ約1.7mで、その上に榎(エノキ)を植えるように定めました。
広島藩では1633(寛永10)年幕府の巡検使を迎えるにあたり藩内の諸往還を整備し、一里塚は広島城下を起点に東は(現在の福山市)神辺町上御領まで二十六箇所、西は(大竹市)小方まで八箇所設置されました。
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井口にも、小己斐山(現在の龍神山)周辺に城下から二里、2番目の一里塚が設置されました。 |
「藝藩通志」「行程記」にも絵図が明閣に記載されています。しかし、井口地区が団地造成などで大きく変貌し、その場所は定かではありません。井口鈴が台1丁目の鈴が台第三公園付近と推定されています。 |
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広島市都心活性化推進室発行の「西国街道めぐり」には龍神山一里塚跡と記述がありますが、説明板を読むと(当時は龍神山とは云わず)小己斐山(こごいやま)と云っていたそうです。
この頁では龍神山一里塚跡としていますが、井口村に設置されていたことから井口一里塚跡とも(わたしが勝手に)記述しています。 |
*2 |
碑に「東 廣島城下ヘ二里」と現代風に刻まれていますが、「從是東廣島城下迄二里」と刻まれた方が昔風ではないのかなと思ったりしました。 |
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今(2010)年一里塚跡碑が建立された事は、歴史を考えるにはたいへん有意義なことだと(わたしは)思います。
説明板を読むまで、「龍神山」が江戸時代から続いていた地名と思っていましたが、「小己斐山」と云っていた事、江戸後期になって頼山陽が登り一献傾けた事で「観月山」と名付けた事も知りました。
一里塚跡碑の周りに9m四方、高さ1.7mの塚が造られ、榎が植えられ後世の人が平成の世に一里塚が復元されたと、大きく育った榎を見ながら話す事ができないかと思ったのですが、そのスペースが防火水槽の上の広場ということから塚が施工できないとの事でし。しかし、根が張るエノキを植えることはできなくても、塚の形は出来るのではと思ったわたしでした。 |
10.06.27裕・記編集 |