(井口の)新道記念碑(千家尊福歌碑

  西区井口明神の井口高校外北西角に建立されえている「新道記念碑」です。
※この記念碑は「千家尊福歌碑」にもなっています。
以前の西国街道は草津村の長崎峠、井口村の小己斐峠などの難所があったので、草津村に住む小泉甚右衛門は其父來助の志を継で有志の輩と語らい明治6(1873)年春官庁への申請そして許可を受け(官費にたよらず民間有志の寄附金で)、其(1873)年秋から海岸沿いの平坦地に新道建設が進められ明治7(1874)年に竣工しました。
広島〜廿日市の間は車馬の交通が可能となったこの道路を、明治9(1876)年7月厳島詣の時通り(人々の功績を感賞のあまり詠った)千家尊福大教主の歌が碑に刻まれています。
側面の碑文は、明治十(1877)年五月村田良穂誌
  井口より廿日市に通じる新しい海沿いの道が開通した記念碑で、1877(明治10)年5月に建立されました。
碑の正面には、千家尊福・出雲大社宮司で出雲大社教初代管長が、厳島詣での際、この新道を喜んで、人々の功績を詠った歌が刻まれています。
  「宇良安うらやすく 行かふ道を都つくりしと 濱の眞まさ故ごの尽ぬいさをや」
この新道で己斐から廿日市間の難所、長崎峠、小己斐峠越えが解消され、人々の往来と物資の流通が円滑に行われるようになりました。
この大事業は明治維新後の激動期・1871(明治4)年にも関わらず草津村・小泉甚右衛門ら有志の取り組み、佐伯郡内各村の支援、有力者75名の助費ではじまり、1874(明治7)年に完成しました。
当初、この記念碑は完成した旧国道の傍らに建立されましたが、後井口漁協前へ、さらに現在地に移設されました。
せんけたかとみ
千家尊福
(1845-1918)
神道家・政治家。出雲国造家に生まれる。出雲大社宮司。のち大社教の初代管長となり国家神道体制に寄与。1888(明治21)年元老院議官。1890(明治23)年貴族院議員、1908(明治41)年西園寺内閣の司法大臣。1894(明治27)年埼玉県知事、1897(明治30)年静岡県知事、1898(明治31)年東京府知事。
1893(明治26)年文部省唱歌として「一月一日」が官報に告示される。
(2007年)7月交流ウォークのときこの碑に刻まれている千家尊福の事を藤井先生に教えていただきましたがなかなか編集が進まなかったのです。わたしはこの碑が建立されているすぐ北を通る国道2号線とのつながりがいまいちわからなかったのですが、10月交流ウォークのとき地御前神社根際に建立の「地平天成」の建立経緯を廿日市地区のボランティアガイドU氏に伺い少しばかりわかってきました。
この碑の周りの状況がわかる処を撮影していませんでしたので、2010年横断歩道の上から撮影しました。また、碑の根際に説明板が設置されていましたので撮影しましたので、この頁を再編集しました。
 12.04.01再編集   07.12.15裕・記編集
   関連頁:(地御前神社根際の)地平天成・碑

10.05.01撮影
広島市西区井口明神2-11 (井口高校外北西角)

07.07.21撮影

07.07.21撮影










































井口村から廿日市という文字はわかりましたが 開道助費人名

07.07.21撮影
国道2号線と碑 明治六(1873)年(癸)酉秋築造 側面の碑文
井口の道路・交通機関の変遷(説明板を使用しています)
一月一日 一番 二番
作詞: 千家尊福
作曲: うえの さねつら
上真行
年の始めの 例(ためし)とて
  終(おわり)なき世の めでたさを
  松竹たてて 門(かど)ごとに
  祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ
初日のひかり さしいでて
  四方(よも)に輝く 今朝のそら
  君がみかげに 比(たぐ)えつつ
  仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ



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「文学碑など」編





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