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廿日市市新宮の“ふれあい通り”に建立されている「(日月ボール)発祥の地・碑」です。
*世界的広がりをみせる“けん玉”のもととなるのが日月ボールというものであることも知らなかったわたしでした。 |
廿日市は、江戸時代以前から木材の集積地として栄え、轆轤(ろくろ)加工の技術が発展してきました。江戸時代にはその技術で傘の部品やそろばん、明治時代には木工玩具の製造がおこなわれました。
現在、私たちが見慣れている「けん玉」は、広島県呉市の江草濱次氏が、剣と玉だけだった明治期のけん玉に鼓状の皿を取付ることを考案したもので、その形から日月(にちげつ)ボールと名付けられました。
江草氏が廿日市を訪れ、けん玉づくりが廿日市で始まったのです。 |
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日本に紹介されたのは江戸時代といわれ、1830(文政13)年喜多村信節の著『喜遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「安永六七(1777・8)年頃拳玉と云もの出来たり」とあり、当初は酒席の遊びであったと考えられています。
それよりも前1809(文化6)年の『拳会角力図会』に「すくいたまけん」というけん玉が図付きで紹介されているそうです。
明治時代になり、当時の文部省発行児童教育解説『童女筌(どうじょせん)』1876(明治9)年に「盃及び玉」として紹介されてから子どもの遊びへと変化して行き、やがて大正時代に、従来のけん先と皿1つで構成されたけんに鼓をヒントにした皿胴を組み合わせた「日月ボール」(または「明治ボール」)が発売され、現在のけん玉の形がほぼ完成しました。
日月ボールは1919(大正8)年5月14日に実用新案として登録されたそうです。 |
廿日市・さくらぴあに設置されている圓鍔勝三作品を観に行こうとしていた時にみた剣玉(拳玉)発祥の地碑でした、廿日市が拳玉の発祥の地で、昔は盛んにつくられていたが、つくる工房が無くなったというようなこともそれとなく聞いていましたが、この碑文を読んで、日月ボールと云っていたことをわたしは、はじめて知りました。「旧・廿日市町」編を再編集している今(2009年)回になりましたがこの頁を編集しました。 |
09.05.19裕・記編集 |