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今川貞世の『道ゆきぶり』の中で、「この山分け下りて、また浦に出でたり。ここをも大野浦といふなり。向ひの山は、厳島山の南のはづれなりけり」と書いて、左記の歌を詠んだそうです。 |
今川貞世 (いまがわさだよ:1326-1420?) |
室町前期の武将歌学者。俗名・貞世。了俊(りょうしゅん)法号。範国の子。足利義詮(室町幕府二代将軍:1330-1367)義満(1358-1408)に仕える。1370(応安3・建徳元)年九州探題に任ぜられ、翌年10月京都を出て中国地方を通過して12月九州へ至る。1372(応安5・文中元)年大宰府を陥落させ北九州を平定するなど、九州経営に力をそそいだ。1384(至徳元・元中元)年より遠江守護。1395(応永2)年京都に召還され25年間にわたる九州探題を解任されたが、駿河半国の守護を与えられ、遠江に下る。1399(応永6)年応永の乱に際し大内義弘と鎌倉公方との連携をはかり失敗。以後和歌、連歌、述作活動で余生を送り、1420(応永27)年頃遠江で没したと考えられる。
冷泉為秀(?-1372)に師事、和歌連歌をよくした。著「難太平記」「言塵集」「落書露顕」「九州問答」など。 |
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