(長州戦争史跡)千人塚

  廿日市市大野町滝の下に建立されている「長州戦争史跡・千人塚」です。 
妹背の滝から西教寺辺りは「瀧の下」と呼ばれており、この付近は(第二次)長州戦争の戦場となり、幕府軍の紀伊藩、彦根藩は西教寺に本陣を構えていたそうです。
1866(慶応2)年6月12日廿日市に駐屯していた幕府軍・彦根藩が大竹村へ向かって大野村を通過した時から8月8日幕府軍が長州軍に敗れて大野村を総退却するまでの間、大野村は諸藩の駐屯兵で一杯になり激戦が幾度も繰り返されました。
6月19日と6月25日は特に激戦で多くの人や馬が犠牲になりました。払暁(ふっぎょう)戦では紀州新宮藩士・橋本角兵衛ほか6名が戦死しています。ここ大野町で戦死した多くの兵士を敵味方なく祀った塚が建立されました。その一部がこの「長州戦争史跡・千人塚」と刻まれた石碑で偲ぶことができます。
(ちょうしゅうせんそう)
長州戦争:
(長州征伐)
(長州征討)

幕末期、徳川幕府の長州藩征討戦争。1864(元治元)年7月、蛤御門の変での皇居への発砲を理由に幕府は出兵。四国艦隊下関砲撃事件により保守派に実権が移っていた長州藩は、抗戦せずに幕府に降伏(第一次)。
その後、長州藩では高杉晋作らの討幕派が反乱により実権を握り、幕府と対立。
幕府は1866(慶応2)年6月再征を開始するが、諸藩の反対などで士気あがらず、挙藩体制の長州軍に各地で敗れ、再征は失敗、幕府の権威は急速に衰えた(第二次)。
2007年に「廿日市町屋跡」碑の碑文を読んだとき『・・・第二次長州戦争時には広島藩士により長州軍の廿日市通過阻止と士気を高めることを目的として、町屋に火が放たれました。この火により町屋は三日間燃え続き焼失した部分は当時の町屋の三分の二に及んでいたとされています。・・・』と記述があり、長州戦争が廿日市町まで及んでいたことを知りましたが、ここ大野町では戦場になったことを今回のこの千人塚などで知りました。
旧・大野町中央図書館に立寄り館員の方に大野町の資料を教えていただきそれを参考にこの頁を編集しました。
09.10.17裕・記編集

09.09.08撮影
広島県廿日市市大野町滝の下 (旧山陽道から妹背の滝への道沿い、左手・西側に位置しています)  

09.09.08撮影

09.09.08撮影

09.09.08撮影
塚の表面にはお名前が刻まれていたのでしょうが読めませんでした 裏面:慶應二年丙寅六月十九日と読めました



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「旧(佐伯郡)大野町」編





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