(大野村)忠魂碑

  廿日市市大野の報国神社境内に建立されている「大野村忠魂碑」です。
忠魂碑       陸軍中將 依田廣太郎書
明治四十四(1911)年十月建之
この忠魂碑は、大頭神社参道と旧・山陽道(旧・大野町町道)との交差点東側に北清事変凱旋碑と並んで建立されていたそうです。
(よだ ひろたろう)
依田広太郎:
(1848-1916)
京都出身。陸軍士官学校卒業。1910(明治43)陸軍中将。1910年11月〜1914(大正3)年8月第11師団長。
江戸時代末期1866(慶応2)年7月9日和睦のため軍使として長州陣営に向う途中、ここ大野村で長州軍の遊撃隊に誤って狙撃され「残念」と言い残し死んだ幕府軍使者:丹後宮津藩士依田伴蔵の長男。
(にっしんせんそう)
日清戦争:
1894(明治27)年8月から翌(1895)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌黄海威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
(ほくしんじへん)
北清事変:
1899(明治32)年〜1900(明治33)年列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。
山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日英米露独仏伊墺(おう)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。義和団事件(ぎわだんじけん)。団匪事件(だんぴじけん)。
(にちろせんそう)
日露戦争:
1904(明治37)年2月から翌(1905)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本と(帝政)ロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
この忠魂碑の建立年月から、日露戦役だけではなく、日清戦役、北清事変、日露戦役の三戦役で亡くなった方々の忠魂を祈念して建立されたものだろうと(わたしは)思いました。
大野町誌によれば日清戦争で3名、北清事変で4名、日露戦役で19名の方々がなくなったと記述がありました。
大野歴史ガイドの会・西尾賢二会長から、揮毫した依田広太郎は残念社に祀られている依田伴蔵の子どもなのですよと教えていただきましたので、この忠魂碑に第11師団長が揮毫したのかわからなかったのですが、その由来が(わたしにも)わかりました。
09.10.21裕・記編集

09.09.08.撮影
広島県廿日市市大野5357  (報国神社境内) 

09.09.08.撮影

09.09.08.撮影



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