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説明板で紹介されている一首は吉田松陰が獄中から両親にあてて送ったものと云われていますのでこの場所で詠んだものでないようです。しかしこの場所が「三県一望の地」といわれていますので、松陰がこの岩に腰掛休んだかもしれないとわたしも思っていますが。 |
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現代では(松陰が生まれた)山口県、そして座る広島県、遠く見たであろう愛媛県の島々から三県一望の地と云われていると廿日市市(佐伯郡旧大野町)の説明板にありますが、
1868(明治元)年に明治政府は三都(江戸・大坂・京)や、開港5港などを管轄する重要地域を府とし、それ以外を県として、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれ、藩はそのまま大名(諸侯)が治めたことから。松陰存命の時は、まだ県という呼称はなかったはずなので、「三国一望の地」と云うのが適切なのではとわたしは思うのです。
周防國、安藝國、伊豫國の「三國一望の地」だな〜と松陰は云ったのでは? |
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松陰は少なくともここ四十八坂を4度ほど通ったそうです。
1851(嘉永4)年3月5日-4月9日 萩〜江戸(藩主の随行人として)
1852(嘉永5)年4月18日-5月12日 江戸〜萩
※(1853年1月26日-5月24日萩〜江戸の時は岩国から船で宮島に渡りこの坂を通らなかったとか)
9月18日-10月27日 江戸〜長崎、〜11月13日萩
11月13日-12月27日 萩〜江戸
1854(安政元)年9月23日-10月24日 江戸〜萩
1859(安政6)年5月25日-6月24日 萩〜江戸(7月9日伝馬町獄に入牢)。10月27日刑死。 |
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関連頁:(安芸区上瀬野町設置)吉田松陰詩詠の地・説明板 、(山口県)松陰神社の絵馬 |