|
南区似島町長谷の似島学園北東側に設置されている「後藤新平」像です。 |
日清戦争当時凱旋兵に対して検疫を実施することを、野戦衛生長官・石黒忠直が陸軍大臣に上申{それは1877(明治10)年西南戦争において凱旋軍が検疫を受けずコレラが蔓延し500名以上の死者を出したことによる}、時期を同じくして中央衛生会・長谷川泰委員長も建言を提出していた。児玉源太郎陸軍次官は検疫の決定をし、臨時陸軍検疫部部長を児玉がやり、後藤が事務長官としてわが国初で、世界でも例のない大検疫事業が始まりました。 |
後藤新平(ごとうしんぺい:1857-1929) |
官僚、政治家。岩手県生まれ。(福島県の)須賀川医学校卒。
愛知県立病院勤務時代西南戦争野戦病院勤めをする、のち愛知県医学校学校長兼病院長のち、1882(明治15)年内務省衛生局入り。
1890(明治2)年独に留学。1892(明治25)年12月内務省衛生局長1893(明治26)年解職。1895(明治28)年4月1日似島の臨時陸軍検疫部事務長官。1898(明治31)年台湾総督府民政長官。1906(明治39)年初代満鉄総裁。逓相内相外相東京市長などを歴任。大陸進出を鼓吹した。 |
関連頁:(東区饒津神社の)臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑 |
|
この像は、当時検疫所に関係していた似島の浜本乙松氏が「後藤新平伯縁故の地」ということで作られたものだそうで、製作年月日は不明だそうです。 |
南区の資料をみると海をバックに写っているこの後藤新平像ですが、学園桟橋附近を探したのですがわからなかったのです。平和養老館に行っているときに似島学園の方に行かれている女性(聞くと平和養老館で介護士をされ、似島学園出身者とか)に「後藤新平像」のことを尋ねたのです。現在場所が変わっていることを教えていただき、そこまでわざわざ連れて行っていただき、撮影することができました。像の作者は誰だろうと像の台座をみると「大造作」と読めるようなのです。彫刻家・森大造(1900-1988)のことかなと(わたしは)考えたのですが確証はありません。
2010年訪ねた時はみぞれ交じりの天候でしたので正面から撮影しなおしました。 |
10.04.05追記 09.04.10.裕・記編集 |