旧第一検疫所遺構

  南区似島町長谷の現在の似島学園内に残る「旧第一検疫所の遺構」を取り上げました。
日清戦争当時、凱旋兵に対して検疫を実施することを、野戦衛生長官・石黒忠直(悳:1845-1941)が陸軍大臣に上申、時期を同じくして中央衛生会・長谷川泰(1842-1912)委員長も建言を提出しており。児玉源太郎(1852-1906)陸軍次官は検疫の決定をし、臨時陸軍検疫部部長を児玉がやり、後藤が事務長官としてわが国初で、世界でも例のない大検疫事業がはじまったのが、この地(現在似島学園の地)で、1895(明治28)年6月1日に開設された似島検疫所でした。
しかし、日露戦争の勃発に伴い、1904(明治37)年10月似島陸軍第二検疫所が(現在の似島臨海公園附近に)設けられ検疫業務の中心が移りました。その後、弾薬庫等の地となっていました。
※1895(明治28)年6月臨時陸軍検疫所が開設検、疫所だけは発電機で電気を使用したそうです。
にっしんせんそう
日清戦争
1894(明治27)年8月から翌(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌黄海威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月下関で講和条約締結。
にちろせんそう
日露戦争
1904(明治37)年2月から翌(明治38)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米大統領セオドア・ルーズベルト(26代大統領:1858-1919) の勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
現在、似島学園に残っていた第一検疫所の遺構は撤去されてきているそうですが、現在の似島学園に残る遺構と(わたしが)思ったものを撮影したのがこの頁です(わたしの知らない遺構が他にもあると思いますが)。
10.05.16.裕・記編集

09.03.07.撮影
広島市南区似島町長谷 似島学園内に残る旧第一検疫所の排水路 

10.02.09.撮影
 似島学園内に残る煉瓦で造られた水路

10.02.09.撮影
似島学園内に残る建物のコンクリート壁

10.02.09.撮影
建物の裏側

09.03.07.撮影
似島学園内に残る土塁に囲まれたところに残る建物基礎、石積み

10.02.09.撮影

10.02.09.撮影
弾薬庫跡の擁壁 大釜が放置されていました



軍都・廣島関連施設戦跡」編



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旧第一検疫所の遺構
旧第一検疫所桟橋跡
(旧第一検疫所)火葬場の煙突
(旧第一検疫所)弾薬庫通用門跡
(旧第一検疫所)弾薬庫への通路跡
(旧第一検疫所)弾薬庫歩哨所跡
(旧第一検疫所)弾薬庫歩哨所跡No.2


 「似島」編





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