(似島)忠魂碑

  南区似島町家下の似島説教場広場に建立されている「忠魂碑」です。
      「忠魂碑」   第5師団長陸軍中将山田陸槌書
1922(大正11)年11月18日建立ですので、日露戦争、シベリア戦争(出兵)で亡くなった方々を対象に建立された忠魂碑だったのでしょうが、続く支那事変、大東亜戦争での死没者も対象とすべく忠魂碑台座に銅版プレート(戦没者の芳名板)が取り付けられたようです。
台座のプレートには、
日露戰争三柱、 シベリア戰争一柱、 支那事変十四柱、 大東亜戰争五十八柱 の戰没者の芳名が刻まれています。
にちろせんそう
日露戦争
1904(明治37)年2月から翌(明治38)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
西伯利亞しゅっぺい
シベリア出兵
1918(大正7)年ロシア革命干渉のため、日米英仏伊がチェコスロバキア軍救援を名目としてシベリアに出兵した事件。1920(大正9)年の連合国軍撤兵後も日本軍は駐留し、尼港(にこう)事件が起きた。内外の非難の中で1922(大正11)年撤兵。
やまだ りくつい
山田陸槌
(1869-1940)
福岡県出身。陸軍士官学校卒業。陸軍大学校卒業。
1921(大正10)年6月〜1937(大正12)年8月第5師団長。
似島公民館でいただいた「平和の散歩道」にこの忠魂碑の紹介が載っていましたので、場所を教えていただき訪ねたのです。戦没者芳名板に刻まれた、シベリア戰争というのは西伯利亞出征のことです。
09.04.22更新   09.03.30.裕・記編集

09.03.07.撮影
広島市南区似島町家下

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影



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