一億一心・碑

  南区似島町長谷の現在・似島学園に残されている「一億一心」碑です。
興亜奉公日(こうあほうこうび)とは、国民精神総動員運動の一環として1939(昭和13)年9月から1942(昭和17)年1月まで実施された生活運動で、毎月1日に設定されたそうです。
1939(昭和13)年8月8日に閣議決定され、同(1939)年9月1日より実施。
「全国民ハ挙ツテ戦場ノ労苦ヲ偲ビ自粛自省之ヲ実際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亜ノ大業ヲ翼賛シテ一億一心奉公ノ誠ヲ効シ強力日本建設ニ向ツテ邁進シ以テ恒久実践ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」という趣旨で、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われ、食事は一汁一菜とし、児童生徒の弁当は日の丸弁当とすることが求められ、飲食・接客業は休業することとなったそうです。
にっちゅうせんそう
日中戦争
1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件にはじまり、1945(昭和20)年8月15日、日本の無条件降伏にいたるまでの日本と中国の戦争。
当初、日本政府は北支事変とよび、不拡大方針をとったが、軍部は戦線を拡大して主要都市鉄道沿線を占領、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展。中国は1937年9月の第二次国共合作による抗日民族統一戦線が各地で抗日戦を強化した。1941(昭和16)年12月太平洋戦争の開始後は第二次大戦の一環となった。当時、日本側は支那事変、日華事変、日支事変とよんだ。
たいへいようせんそう
太平洋戦争
第二次大戦のうち、アジア太平洋地域が戦場となった日本と米英オランダ中国など連合国との戦争。
日中戦争の行き詰まり打開のため、1941(昭和16)年12月8日、日本は米英に宣戦、一時は南方諸地域を制圧したが、ミッドウェー海戦を転機に1942(昭和17)年後半から守勢一方となり、1945(昭和20)年8月米国の広島(6日)、長崎(9日)への原爆投下やソ連の参戦(9日)などによりポツダム宣言を受諾して、8月15日無条件降伏した。当時、大東亜戦争と呼ばれていた。
1940(昭和14)年7月23日近衛文麿(1891-1945)当時首相が「大命を排して」と題してラジオ放送をしたその中で「大御心を仰いで一億一心、真実の御奉公を期さねばならぬ」と云い、「陸海軍、朝野、上下みな心を一にして、陛下の御教えのままに大政を翼賛し奉らねばならない」と述べたそうで、国民を戦争への道を歩むことに檄をとばした言葉でもあったそうです。
大政: 天下の政治。まつりごと。
翼賛: 力をそえてたすけること。補佐すること。
たいせいよくさんかい
大政翼賛会
1940(昭和15)年10月、近衛文麿を中心とする新体制運動推進のために創立された組織。総裁には総理大臣が当たり、道府県支部長は知事が兼任するなど官製的な色彩が濃く、翼賛選挙に活動したのをはじめ、産業報国会大日本婦人会隣組などを傘下に収めて国民生活のすべてにわたって統制したが、1945年国民義勇隊ができるに及んで解散した。
旧・陸軍第一検疫所の地に建つ似島学園ですので、現在も当時のこの「一億一心」碑が(碑文があった所と思われる処を取除されても)遺されていることは(わたしは)有意義なことだと思うのです。
それは、全国民を巻き込み戦争へ突き進んだ過去の過ちを考える資料になると思うからで、これからも大切に遺されていくことでしょうが、この碑からいまの日本を考える一助にもなるものと思うからです。
10.03.12.裕・記編集

10.02.09撮影
広島市南区似島町長谷1487 (現在の似島学園)

10.02.09撮影

10.02.09撮影
建立者、建立年月日が刻まれていたと思う大理石版は(戦後になって?)壊されたのでしょう



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