菓子伝説の地・似島

  南区役所では(まちづくり活動一助として)南区七大伝説というものを造っています。
その中の一つがここで取り上げた「菓子伝説の地・似島」です。
菓子伝説の地・似島 ※資料は、南区7大伝説を参照し編集しました
  日本でバウムクーヘンを普及させたカール・ユーハイムは、今から90余年前、ドイツの租借地であった中国のチンタオ(青島)で、ドイツ人相手にケーキを焼いていました。第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本が、チンタオを陥落させたのが1914(大正3)年11月でした。彼は結婚したばかりで、非戦闘員でしたが、多くの捕虜と一緒に日本へ連行され、1917(大正6)年2月には大阪の収容所から似島に移されました。
開設当時の似島の捕虜収容所の収容人数は、540名あまり、場所は、現在の似島臨海少年自然の家あたりで、建物・畑・テニスコート・サッカー場を含めた1万6000uほどでした。捕虜となった人々は色々な作業についており、印刷所では新聞も発行されていました。1918(大正7)年11月ドイツの降伏により、捕虜達にはより一層の自由が与えられることになり、翌(1919)年には、捕虜チームと広島高等師範の学生とのサッカーの試合が行われています。そんな中、ユーハイムは捕虜収容所でバウムクーヘンを焼いていました。彼が活躍したのが1919(大正8)年3月4日から始まった広島県物産陳列館(現在・原爆ドーム)での捕虜製作品展覧会で、初日の入場者は7,400人を数え、その後も大盛況だったといわれています。当時の書物によると、工芸品、絵画、サンドウィッチやコーヒーなどという、当時としては、まだまだ珍しいものが並び、多くの市民をヨーロッパに行った気分にさせたとあります。
中でも菓子は、初日だけで150円を売り上げ、一番の人気商品でした(当時、教師の初任給が20円だった)。当日の様子を中国新聞が紹介しており、これが日本人とバウムクーヘンが最初に出会った出来事とされています。
1920(大正9)年に捕虜生活から開放されたユーハイムですが、そのまま日本に残り、横浜に自分の菓子店を開店しました。ドイツ、中国、日本と波乱万丈の人生を過ごしたユーハイムが、似島の地に残したバウムクーヘンは今や全国に広がっています。
カール・ユーハイム(Karl Joseph Wilhelm Juchheim:1886-1945)
  カール・ユーハイムは南ドイツのカウプ・アム・ラインに生まれました。
厳しい修行に耐え、20歳のとき一人前の菓子職人になり、1908年菓子協会の勧めで当時、ドイツの租借地(そしゃくち)中国・青島(チンタオ)の菓子店に勤めることになりました。
カール・ユーハイムの作るバウムクーヘンは「本場ドイツの味」と評判を呼び、権威あるマイスターの資格も取得しました。5年間が過ぎて、カールはひとりの女性を紹介されたのです。その女性こそエリーゼで、ふたりは1914年7月青島で結婚式をあげました。
しかし、折悪しく第一次世界大戦が勃発し、青島は日本軍に占領されてしまい、非戦闘員であったにもかかわらずカールは日本に強制連行されてしまったのです。
広島(似島)の収容所に入ったカールでしたが、1919(大正8)年3月4日広島県物産陳列館で開催された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會」で自慢のバウムクーヘンを出品しました。これが日本で初めて焼かれたバウムクーヘンでした。1920(大正9)年捕虜生活から開放されたカールは、その後も日本に残り、青島に残されていたエリーゼは息子のフランツを連れて日本に渡り、カールと再開しました。1921年、全財産をはたいて手に入れたのが横浜の店で、「E・ユーハイム」とし、バウムクーヘンをはじめ、サンドケーキ、プラムケーキ、アップルパイなどが飛ぶように売れ、順調な滑り出しをみせました。しかし、マイスターの誇りであるバウムクーヘンだけは他の職人にまかせることはありませんでした。1923(大正12)年9月1日関東大震災で店は一瞬にして灰と化してしまいました。
多額の借金をして神戸・三宮に新しい「Juchheim's」という店を開店しました、その後新しい店などに押されて売上を落とすこともありましたが、そんな時エリーゼはカールや職人に向かって「私たちは最高の材料と最高の技術でお菓子を作っています。心配ありません。」と云っていました。
やがて第二次世界大戦が勃発し、職人たちも次々戦場へ赴き、神戸も空襲を受け、夫妻も六甲へ疎開しましたが、カールは病に倒れ、日々衰えていきました。1945年8月14日(終戦を迎える前夜)カールは息を引き取りました。
エリーゼは、終戦後(GHQによって)ドイツに強制送還されました。
しかし、戦争から戻った職人たちが1950(昭和25)年神戸生田神社前に店を開き「ユーハイム」を再開しました。
1953(昭和28)年3月エリーゼがドイツから戻り、直後から会長になり、1961(昭和36)年10月からは社長に就任しました。エリーゼは、1971(昭和46)年5月2日に兵庫県神戸市で亡くなりました。
バウムクーヘン(独語:Baumkuchen=Baum+kuchen)は、日本語に訳せば、木+ケーキとなり、中心にドーナツ状の穴があり断面に樹木の年輪のような同心円状の模様が浮き出たケーキです。
ユーハイムが焼いた当時はピラミッドケーキと云われていたそうです。
2004年比治山の陸軍墓地で独逸人墓標をみて、第一次世界大戦の時に独逸人捕虜を似島の検疫所内に収容したことを(わたしは、はじめて)知りました。
その頁を編集中に、カール・ユーハイムが日本の地ではじめてバウムクーヘンを焼き、広島が発祥の地ということを知る事にもなりました。
この頁では、(広島市)南区が、町おこしの起爆剤の一貫として、七大伝説を取り上げ、その中の一つとして、バウムクーヘンを日本にも根付かせた事を物語として「菓子伝説の地・似島」の説明板を似島に設置し、紹介していますので、それを基に編集しました。2010年3月交流ウォークでこの地を散策しました。その時のお土産・ユーハイムのバウムクーヘン、参加賞の缶バッチも掲載しました。
10.03.17.裕・記編集

10.03.13撮影
広島市南区似島町家下752-74   似島合同庁舎横広場(に平成21年3月設置)

10.02.09撮影

10.02.09撮影
ユーハイムのバウムクーヘン

10.03.16スキャン
商品名 バウムクーヘン
名称 洋菓子
原材料 卵、砂糖、バター、小麦澱粉、ホワイトチョコレートコーチング、小麦粉、アーモンドパウダー、液糖、食塩、レモン果汁、バニラ、レシチン(大豆由来)
賞味期限 10.03.26  Y3ル6
製造者 株式会社ユーハイムSGA
神戸市中央区港島中町7-7-4



「民話・伝説」編



広島ぶらり散歩へ
菓子伝説の地・似島
(似島少年自然の家)バウムクーヘン作り


「(南区)似島」編





SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO