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南区似島町字東大谷の広島市似島臨海少年自然の家2階に設置されている「資料室」です。
※少年自然の家の資料には‘展示ロビー’と名前が付いていますが、わたしが勝手に資料室と名付けています。
*2010年見学してこの頁を編集しましたが、2015年見学した時はより充実した展示資料になっていました。 |
似島は日清戦争以後、陸軍の検疫所など軍の施設として使われた歴史があり、敗戦まで島の南側(自然の家がある東大谷地区をはじめ、大黄地区、長谷地区など)は一般市民の立ち入りが禁止されていました。
いまの自然の家も、検疫所の跡地に作られており、施設内、あるいはその周辺に、戦争中の遺跡が残されています。また、原爆投下直後、救護所が作られ、被爆された方がたくさん似島に運ばれてきたことから、島自体が原爆とも深いつながりを持っています。
そのようなことからも(自然の家の2階には)、原爆資料館から貸与された被爆資料が展示されています。 |
似島をつくっている花崗岩は広島市を中心としてひろく分布している広島型花崗岩の一部であり中生代末期(約六千万〜七千万年前)にできたものと考えられ、新生代の洪積世(約一万年前まで)の時代には、日本列島と朝鮮半島は陸続きで、瀬戸内海は中国山地と四国山地にはさまれた平原であり、ナウマン象、ムカシジカ、バイソンなど大形獣が渡ってきたと考えられています。このことは、似島の東(峠島の南より)や西能美島の西、向島と白島の間の海底でみつかっている化石などで明らかにねっています。
洪積世末期から沖積世はじめ頃から地球の温暖化がはじまり、海水面が上昇し朝鮮半島との陸続きもなくなり、瀬戸内海にも海水が入り海となったことで、似島の近くや山口県のかぶと島の近くから、クジラの骨がたくさんあげられていることから、数千年前まで広島湾など瀬戸内海には大きなイワシクジラが泳いでいたことがわかります。海底からナウマンゾウなどの化石が漁師の網にかかって上がってくることがあり、それらも展示されています。 |
ナウマン象の化石が展示してあることを知って2010年2月(わたしは)はじめて化石が展示してあるという2階(似島臨海少年自然の家の施設資料では体育棟2階・展示ロビーとなっています)で展示資料を拝見しました。
展示内容は平和学習にそして科学というか化石に興味津々の歴史・科学資料室と云っても決して誇張はないと(わたしは)思ったので、展示ロビーではなく「資料室」として記述しこの頁を編集しました。
2015年被爆70年に見学すると以前より充実した資料室になっていました。2018年のいまになりましたが頁を更新しました。 |
18.04.18.更新 10.03.26.裕・記編集 |
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10.02.09撮影 |
広島市南区似島町字東大谷182 (広島市似島臨海少年自然の家2階) |
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10.04.15撮影 |
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10.02.09撮影 |
10.02.09撮影 |
10.04.15撮影 |
展示パネル:千人塚 |
展示パネル:第三桟橋から検疫所をみる |
似島で発掘された遺品 |
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10.02.09撮影 |
10.02.09撮影 |
10.04.15撮影 |
ナウマン象の化石 |
カトウキヨマサジカの化石 |
(似島で産した)水晶 |
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15.10.10.撮影 |
(展示物もパネル類も以前に比べ充実していました) |
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15.10.10.撮影 |
(似島で発掘された遺品類) |
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15.10.10.撮影 |
(以前なかった、被爆時刻8時15分を指した時計も展示されていました) |
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15.10.10.撮影 |
(瀬戸内海の貝:充実した展示になっていました) |
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