(似島と宇品を結ぶ歴史の遺構)宇品停車場うじなていしゃじょうプラットホーム敷石の碑

  南区似島町東大谷の広島平和養老館前にモニュメントとして部分復元されている「宇品停車場プラットフォーム」です。
※もともと南区宇品に建設されていた宇品駅のプラットフォームのものでした。
明治27(1894)年8月4日、日清戦争の開戦直後に軍用宇品線が開通し、翌(1895)年の日清講和(下関)条約公布の半月後、明治28(1895)年6月1日には外地で大流行していた伝染病の国内への侵入阻止を目的として臨時陸軍検疫所似島検疫所が島内の長谷地区(現在の似島学園の地)に開設されました。
当時、コレラや腸チフスなどの流行地であった朝鮮半島や台湾方面の戦地から帰還した旧軍将校らの大多数は似島で検疫を受けた後、その多くが宇品駅(宇品停車場)から列車に乗り込んで全国各地の師団や連隊に帰属しました。
世界屈指の規模と能力を備えた似島検疫所では日清戦争以降も戦地・外地から帰還した多くの旧軍将兵らの検疫を行い、帰還者にとっては似島が故国日本の中で最初に大地を踏みしめる歴史的な場所になりました。
当地での検疫後、宇品駅から列車に乗り込んで各地の師団や連隊に復帰する彼らにとって、似島は懐かしい家族の元へ還る道程の一里塚でもありました。
また、似島では日露戦争時に旅順や奉天などで俘虜となった莫大な数のロシア将兵らの検疫も行われ、その大多数は似島から宇品駅を経由して全国に急遽設置された俘虜収容所にへ送られました。
さらに、第一次世界大戦時に中国・チンタオで俘虜となったドイツ軍将兵は列車で大阪から似島へ転収容された時(大正6年2月)に宇品駅のプラットホームに降り立ったのです。
検疫所などが設置されていた似島と停車場を含む陸軍施設が集積していた宇品が一体となって関わった近代日本の歴史と遺構を後世に伝えるとともに、戦没者の慰霊と恒久平和を祈念して宇品駅プラットホーム敷石のモニュメントを元陸軍(第二)検疫所跡地に設置したものです。       
   平成17(2005)年7月 似島連合町内会
   関連頁:廃線になった宇品線の跡
2009年はじめて訪ね広島養老館に建立されている原爆関連の慰霊碑を撮影しているときに、この宇品駅プラットフォーム石を移したモニュメントも撮影したのですが、2010年になりましたが説明板を読んで頁を編集しようと思い追加撮影して頁を編集しました。
2015年被爆70年び似島を訪ねここでも撮影していました。2018年のいまになりましたが画像を加えこの頁を更新しました。
18.04.16.更新    10.05.13.裕・記編集

09.03.07撮影
広島市南区似島町東大谷3073-5  広島平和養老館前

09.03.07撮影
元宇品駅の敷石モニュメント後側と(似島で使用されていた)トロッコのレール

10.02.09撮影

10.02.09撮影

15.10.10.撮影

15.10.10.撮影



「乗り物」編



広島ぶらり散歩へ
「似島」編


広島平和養老館
  (似島)原爆被爆者診療の地碑
  (平和養老館)平和地蔵尊
  (平和養老館)平和観音
  宇品停車場プラットホームの敷石
  旧陸軍のトロッコレール
  向井佐歳先生顕彰碑





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