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南区似島町字東大谷の広島市似島臨海少年自然の家に展示されている「似島で発掘された(被爆した人たちの)遺品:A-bomb victims'
belonginbs Excavated in Ninohsimas island」です。 |
被爆(1945年8月6日8時15分)直後、宇品にあった陸軍船舶司令部は独自の救護活動に入りました。
構内に陸続と押しかけた負傷者の安全な場所として、海上5、6km離れた陸軍似島検疫所に輸送することが計画され、すぐさま実行されましたが、正確な数は確認されていません。
負傷者の多くは収容される前に死亡し、そのまま埋葬された多かったのです。1971(昭和46)年11月(被爆後26年経って)似島中学校農業実習地から遺骨617体、遺品70点が発掘されました。その後も発掘がありました。 |
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似島は日清戦争以後、陸軍の検疫所など軍の施設として使われた歴史があり、敗戦まで島の南側(自然の家がある東大谷地区をはじめ、大黄地区、長谷地区など)は一般市民の立ち入りが禁止されていました。
いまの自然の家も、検疫所の跡地に作られており、施設内、あるいはその周辺に、戦争中の遺跡が残されています。また、原爆投下直後、救護所が作られ、被爆された方がたくさん似島に運ばれてきたことから、島自体が原爆とも深いつながりを持っています。
そのようなことからも(自然の家の2階には)、原爆資料館から貸与された被爆資料が展示されています。 |
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展示されていた遺品は、(ケースの中に展示されており、わたしの腕の問題で)うまく撮影できませんでした。あなたも機会があったらぜひ見学され、原爆で起きた出来事について考えてみていただければと思い紹介しました。 |
2010年10月再び訪ね、撮影しました。原爆資料館(広島平和記念資料館)から貸与されていると思った(被爆した)財布や貨幣なども撮影しましたので、この頁を更新しました。
2015年被爆70年見学した時、以前よりも展示が充実していましたので撮影していました。2018年のいまになりましたがこの頁を更新しました。 |
18.0418更新 10.05.18.裕・記編集 |
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10.02.09撮影 |
広島市南区似島町字東大谷182 (広島市似島臨海少年自然の家2階) |
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10.10.10撮影 |
ベルト |
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10.02.09撮影 |
革靴 |
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10.10.10撮影 |
櫛 |
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10.10.10撮影 |
10.10.10撮影 |
瓦 |
(熱線の威力) |
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似島で発掘された遺品
1945(昭和20)年8月6日被爆直後、宇品にあった陸軍船舶司令部(通称:暁部隊)は、独自の救援活動に入りました。
陸軍似島検疫所に扶桑することが計画されましたが、正確な数は確認されていません。
重傷者の多くは収容される前に死亡し、そのまま埋葬されたものも多くありました。
陸軍の施設であったことから、遺体がどのように処理されたのか不明でしたが、島民の証言により発掘調査が行われました。戦後26年経って、遺骨617体、遺品70点が発掘されました。 |
(上記に記述していますが)
2015年見学した時、新しい説明板になっていて多少文章が違いました。 |
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15.10.10.撮影 |
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15.10.10.撮影 |
(似島で発掘された遺品類) |
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15.10.10.撮影 |
(以前なかった、被爆時刻8時15分を指した時計も展示されていました) |
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15.10.10.撮影 |
(被爆時刻8時15分を指した時計は、通称・原爆資料館から貸し出したものか?) |
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