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西区己斐中に建立されている「吉村斐山の墓」です。 |
吉村斐山の墓 通称は中村龍蔵です。地名(己斐)にちなんで吉村斐山と号しました。五千冊を越える本を読むなど勉学に励み、漢学者となりました。
晩年、光西寺の近くに住み修道館の教授となりました。 |
広島市立己斐中学校 |
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吉村斐山は文政5(1822)年生まれ。吉村秋陽に学びました。後に吉村家の娘婿となり、養父の後を継ぎ、三原浅野藩校教授とりました。明治になり広島藩校修道館教授。
引退後、光西寺近くに寓居し、郷土の子弟を育てました。明治15(1882)年没。 |
斐山の子・古處(こしょう)は、父の学舎に学び、師範学校を卒業後、小学校・浅野学校で教諭、明治16(1883)年広島師範学校教諭を務め明治41(1908)年没。父子ともに教育に携わった先覚者でした。 |
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現在「吉村彰(吉村古處)頌徳碑」が広島大学東広島キャンパス教育学部棟横に建立されているそうです。 |
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交流ウォークコース選定ウォーキングの時連れて行ってもらいました。わたしはこの辺りははじめて何処をどういったか、ここに葬られる吉村斐山の事もはじめて知ったのでした。 |
広島大学東雲同窓会のE氏よりメールをいただき、
「吉村彰頌徳碑」が1910(明治43)年皆実町に建立されのち東雲と移設され、広大の東広島市への移転にともない(現在)広大教育学部横に建立されている事、またわたしが記述していた墓地の住所の誤記述を指摘していただきましたので訂正しました。 |
15.01.24訂正・更新 07.04.02裕編集 |