神崎之碑

  中区河原町の中島神崎橋西詰北側に建立されている「神崎之碑」です。
「神崎」の名が歴史上最初に現れるのは天和3(1683)年藤原惺窩(儒学者:1561-1619)の門人であった木下順庵(1621-1699)が、藩主浅野綱長(1659-1708)の求めに応じてつくった詩文「神崎八景」であると思われます。更に、享保8(1723)年には「神崎開」の名で正式な藩領として記録されています。
「神崎」という名の由来は、太田川の本流である本川の「川の崎」が訛って「神崎」となったという説や対岸に住吉神社が在ることから「神の崎」と呼ばれるようになったという説、あるいは、当地の開発にかかわった人の名からという説もあります。
本川に臨む神崎の地は、水上交通の要所であったため浅野藩政時代には家老の上田氏や上級武士による船屋敷、下屋敷などが設けられていたと云われています。
また、宝暦8(1758)年に始められた「神崎船渡」は、明治の終わりまで続けられ市民の利便に供せられてきました。この古くからの名称が後世に伝承される事を願いここにこの碑を建てます。
昭和60(1985)年9月 神崎学区連合町内会、神崎学区社会福祉協議会
知新集の船入村の項に「神崎」がみえます。
神崎船渡:寶暦八年よりはしまる、与一といへる者渡し守す御船手の支配なり
神崎開:享保八癸卯年高附、同堤の上板藏四ヶ所定番所一軒御船手の支配なり
いままで、中島神崎橋は何度もわたっていますが、西詰で足を止めてこの碑を見た事はなかったのです。
2011年交流ウォーク観音地区下見の時、そう思えば、神崎小学校はあっても、神崎町という町名はないな〜と(わたしは)思ったのです。神崎学区の人たちはもっと前から身近にそう感じていた時に、中島橋で橋名が決まりそうになったときに何とか神崎の名を残さなくてはと思われたのでしょう。中島神崎橋の完成と期を一にしてこの碑が建立される事になったのだろうと(わたしは)思いましたので、この碑を取り上げました。
11.07.17裕・記編集

10.05.05撮影
広島市中区河原町本川河岸  (中島神崎橋西詰北側)

10.05.05撮影

10.05.05撮影

10.05.05撮影
中島神崎橋の北側歩道から神崎之碑をみました



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