(現・観音中学校)二宮尊徳先生幼時之像
  西区南観音の広島市立観音中学校に建立されている「二宮尊徳先生幼時之像」です。
皇太子殿下御誕生記念トシテ児童訓育ノ爲メ亡夫ノ遺志ニ依リ本市堺町高田ミツ氏之ヲ寄附ス
                   昭和十(1935)年四月二十五日  廣島市長横山金太郎
現・明仁天皇の1933(昭和8)年12月23日誕生の記念
(にのみやそんとく)
二宮尊徳:
(1787-1856)
江戸後期の農政家。通称、金次郎。相模国の人。
合理的で豊富な農業知識をもって知られ、小田原藩・相馬藩・日光神領などの復興にもあたる。その陰徳・勤倹を説く思想・行動は報徳社運動などを通じて死後も影響を与え、明治以降、国定教科書や唱歌などにも登場。
(ほうとくしゃ)
報徳社:
1843(天保14)年二宮尊徳の指導のもと小田原に設立された農民扶助のための相互融資機関。尊徳の死後も門弟により各地に相次いで設立され、独立自営農民を主体とする結社として明治維新以降も発展、1924(大正13)年大日本報徳社の結成に至った。
1935 昭和7年4月1日 広島市立第二高等小学校創立。
1941 昭和16年4月1日 国民学校令により広島市立第二国民学校と改称
1945 昭和20年8月6日 原爆投下により建物疎開の為旧中島町に動員された生徒並びにその他工場等学徒動員中の生徒260余名と教師6名が被爆死。
1947 昭和22年4月1日 新制中学校として広島市立第二中学校として開校。
(第二高等小学校の校舎、校内を受け継ぐ)
1949 昭和24年4月30日 広島市観音中学校と校名変更。
原爆関連の慰霊碑を巡りだした2000年平和大通り土橋町の処に建立の(広島市立)第二国民学校慰霊碑で、広島市に第一から第三まで国民学校があり、多くの生徒が(建物疎開作業中などで)亡くなった事を知ったのです。
今(2011)年交流ウォーク探検隊の時ここ観音中学も訪ねてみようとなったのです。
校門入ったところに、二宮尊徳先生幼時之像をみました。(土曜日という休校日でありましたが)丁度先生が居られましたので、市内の小学校で横山金太郎市長が碑文を書いている二宮金次郎像はみてきましたが、中学校では珍しいのでは?と(わたしは)話しかけたのです。(お若い)先生は、ここはもともとは第二高等小学校だったのでその時像は建立されたのではないのでしょうかと云われ、毎年平和大通りの第二国民学校慰霊碑前で慰霊祭が催されているのですよと話されました。(広島の地で育ってはいないわたしですが)原爆関連の慰霊碑を巡りだしてたかだか10年ほどですが、迂闊なことだったと恥じながら、先生の話を伺いました。
11.07.19裕・記編集

11.03.05.撮影
広島市西区南観音3-4-5   広島市立観音中学校

11.03.05.撮影

11.03.05.撮影

11.03.05.撮影



「野外彫刻など」編
二宮金次郎の像



広島ぶらり散歩へ
広島市立第二国民学校慰霊碑
(観音中学校)二宮尊徳先生幼時之像


「観音地区」編





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