みたてやま
見立山
  東区牛田旭にある「見立山」を取り上げました。
見立山の由来
ときは戦国の世、中国地方の大半を制圧した毛利氏は、高田郡吉田(現・安芸高田市)の郡山城から平城を求め広島への築城を思い立ちました。当時の広島はいくつかの島に分れた、葦の生い茂る寒村だったと云われています。天正17(1589)年毛利輝元は二葉山、己斐山に登り、何処に築城するか思案したあげくこの(見立山)山に登り、そして島の中で一番広い島「在間」を城の場所と見立て、以後この山は「見立山」と呼ばれるようになりました。
見立山(みたてやま)は海抜118.2m。
武田氏が安芸国の守護であった1503(文亀3)年この山裾にお宮を寄進し神田神社と呼びました、それゆえ裏山に当たるこの山を神田山と呼ぶようなになったそうです。
武田氏にかわり毛利氏が守護として平城を求めて広島へ築城を思い立ったときは、五つの寒村(冶塚庄、平塚庄、在間庄、広瀬庄、白島庄)が太田川デルタにありました。毛利輝元は、在間庄に築城することを決め、1589(天正17)年広島城を起工し、1599(慶長4)年に完成しています。
昔の路は、牛田山の西側中腹を南北に通じており、いま「見立山」という山(丘)は旅立つ人を見送ったところだからという説もあるようです。
神田とは、「神に捧げるお米を作る田」ということだそうで、古老は字(あざ)名として今でも神田というそうです。
以前、この見立山麓の牛田旭1丁目に住んでいましたので、子どもたちが小さかった時の夏にはクワガタ虫を採りにこの山に朝早く行っていたことを思い出します。今回広島ぶらり散歩「牛田・二葉の里附近」編を編集にあたり、この見立山も取り上げなくてはとこの頁を編集しました。
12.08.13.更新   09.07.27裕・記編集

08.02.22.撮影
広島市中区白島北町付近から 東区牛田旭の見立山を京橋川越にみました

08.02.22.撮影
広島市東区牛田旭1から見立山をみました

09.02.07.撮影

09.02.07.撮影
見立山の山腹でみた広島営林署の標識
「昭和57(1982)年度牛田山国有林山腹新設工事」
見立山山頂に登るときに見た説明板の地図部分
見立山よりみた広島の街

09.08.01.撮影
見立山頂上よりみた広島の街

09.02.07.撮影
見立山中腹より二葉山みました

09.02.07.撮影

09.02.07.撮影

09.02.07.撮影
基町クレドビル と 広島県立総合体育館の屋根 がみえました

09.08.01.撮影
アストラム牛田駅下に設置の案内板

09.08.01.撮影
広島市設置の案内板の図板を使用しています



「牛田・二葉の里附近」編


「高所からみる広島市街地」編



広島ぶらり散歩へ
見立山
  見立山の記念塔
  (見立山の)水源地・四等三角点
広島城(在間城)
二葉山からみる広島市遠景
見立て山からみる広島市遠景





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