(天水)皇子神社
  東区牛田新町に鎮座している「(天水)皇子神社」です。
天水の名水を訪ねるのに地図をみると、根際にこの(天水)皇子神社が鎮座していることが分かりましたので、参拝しようと思ったのです。
広島神社誌に記載はないようでしたので、訪ねた時は由来板を探さなくてはと思っていたのです。
参拝しようと、賽銭箱はと思った時、床にまさか、由来を記したものがあるのか?と思ってみると
『最近賽銭箱の破損・盗難が相次いで起り、その都度、町内の防犯推進委員や牛田交番の協力による巡回を強化していましたが、残念なことに破損・盗難を防ぐことが出来なかったので、賽銭箱を撤去したこと、いつの日か再び賽銭箱の設置することができる日が来ることを願っています』
(わたしが勝手に要約した)という貼紙だったのです。
賽銭箱が荒らされる事はここだけではないことを知っていましたが、わたしも含めた今の大人が築いたお金中心で、約束よりも大切なものがあるという世の中を、次の世代には修整していただきたいものと思っていますので、あえてこの文を記しました。
皇子神社について何かヒントがないかとNET検索すると、岡山県笠岡市立陶山小学校の資料にヒントがありましたので参照しました。
これ(下記)がこの天水の皇子神社に当てはまるのかは(わたしには)分かっていませんが。
『現在の(陶山)皇子神社は、明治時代までは「王子大明神」という名称でしたが、1871(明治4)年に「皇子神社」に名称が変わりました。12世紀〜13世紀のころ、熊野古道沿いにたくさんの「王子」と呼ばれる神社がつくられ、あまりにもたくさんの神社だったので、まとめて「九十九王子(くじゅうくおうじ)」と呼んでいたそうです。この王子が「皇子神社」の名前の由来で、(陶山)皇子神社の鳥居には今でも「王子神社」の文字が残っています。それから漢字が変わって「皇子大明神」「皇子神社」となったようです。』
(おうじ)
皇子:
天皇の男の子。みこ。
(しんぶつぶんりれい9
神仏分離令:
1868(明治元)年3月、明治政府によって出された、古代以来の神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(きしやく)運動が起こった。神仏判然令。
(近代)社格制定: 1868(明治元)年の神仏分離令により神仏習合の寺社から神と仏を峻別しました。
そこで改めて、全国各神社の官幣社、国幣社、府県郷社等の社格が定められたのが、1871(明治4)年5月14日の事でした。
牛田新町の天水の名水を訪ねた時に、この(天水)皇子神社を参拝し撮影しましたが、由来が分かりませんでした。歴史をひも解くには推理が必要といわれていますが、間違った推理ではどう仕様もありませんが、初代天皇・神武天皇が東征の際に府中町に滞在されたと伝わっていますので、東区のこの地にも立ち寄られたとも考えられます。皇子とは神武天皇のことと考えられはしないのかと、神話自体を否定する現代の世の中ですので一笑にふすことは簡単ではありますが、(わたしはこの歳になってきて)浪漫を取戻したらとも思うこのごろではあります。
10.11.10裕・記編集

10.09.16.撮影
広島市東区牛田新町4-10

10.09.16.撮影

10.09.16.撮影

10.09.16.撮影



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