桑原卯之助の墓

  安佐南区祇園の勝想寺に建立されている「桑原卯之助の墓」です。
桑原卯之助(くわばら うのすけ:1724-1783)
(桑原)卯之助は、沼田郡南下安(みなみしもやす)村の大工[屋号を鋳物師屋(いもじや)と云った]で、八木用水路*(やぎようすいろ)を完成させた江戸時代中期の人です。
太田川の下流、安芸国沼田郡八木(やぎ)村(現:広島市安佐南区八木)から、緑井(みどりい)、古市(ふるいち)、祇園(ぎおん)、新庄(しんじょう)、三篠(みささ)と、村々の水田を湿し、その水路は10数Kmにも及びます。
この用水路は「八木用水」「定用水」(常用水)と名付けられ、取水は、可部(かべ:広島市安佐北区)の市街を望む対岸です。明和4(1767)年卯之助が、八木村の十歩一(じゅうぶいち)からの取水を思い立ち、灌漑地域となる村々の土地の高低や、既存の水路などを充分に検討して、明和5(1768)年4月4日着工、幅2m、長さ16km、九ヶ村◇にわたる水田230町歩(約230ha)への水路を、同(明和5)年4月28日に完成させました。この短い工期からみて、これまでの水路を若干手直しすることにより永続的な用水路を設定したものと考えられているようですが、この水路の完成で、新田の開発も行われ、収穫高もおおいに上昇したそうです。
(240年の昔から)現在もなお安佐南区の市街のあちこちに流れを止めることのない用水路なのです。
一般的には、桑原卯之助と云われていますが、「桑原」の苗字を許されたのは、卯之助の子の已之助(みのすけ)の代になってからの1817(文化14)年のことだそうです。
1723年という資料もありますが、わたしは「広島県大百科事典」を参考にしました。
1724(享保9)年は甲辰で、1723(享保8)年が癸卯からかなと思いましたが、1724年8月7日生まれで1783(天明3)年4月10日没だそうです。
古くは「定用水(じょうようすい;常用水とも)」と呼ばれ、
「八木用水」と呼ばれるようになったのは、戦後になってからと云われています。
八木、緑井、中須、古市、西原、長束、新庄、楠木、打越の九ヶ村。
(現在、広島市安佐南区や西区になり町名が変わっている所もあります)
安佐南区区政振興課発行「あさみなみ散策マップ」を参考にしながら、交流ウォーク探検隊で訪ねた勝想寺の墓地に建立されているという桑原卯之助のお墓を訪ねたのですが、墓苑の何処かが判らなかったのです。
庫裡の前を掃除されているご婦人(ご住職の奥様のようでした)にお尋ねするとわざわざ案内してくださいました。
墓石に刻まれた文字が薄くなってはいましたが、正面に卯之助の文字、側面に天明三癸卯(1783)年四月と亡くなった年月が刻まれているようでした。
10.02.16更新   08.11.21裕・記編集

08.05.08.撮影
広島市安佐南区祇園2-36-8 勝想寺

08.05.08.撮影
桑原卯之助の墓

08.05.08.撮影



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