もうりたかもと ぼしょ
毛利隆元墓所

  安芸高田市吉田郡山城跡に建立されている「毛利隆元墓所」です。
(※安芸高田市は、2004(平成16)年3月1日、高田郡吉田町、八千代町、美土里町、高宮町、甲田町、向原町が合併して誕生)
毛利隆元(1523-1563)は、毛利元就(1497-1571) の長男として大永3(1523)年多治比猿掛城内で生まれました。吉川元春(1530-1586:二男)小早川隆景(1533-1597:三男)の兄にあたります。
幼名を少輔太郎といい、天文6(1537)年人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆(1507-1551)の加冠で隆元と称した。
以後天文10(1541)年19歳で帰還するまで大内氏の優遇を受けました。天文15(1546)年24歳で家督を相続しました。三年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22(1553)年に長男幸鶴丸(1553-1625:輝元)の誕生をみました。
永禄期(1558-1570)、九州の大友氏と交戦していましたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比猿に一時帰還し、郡山城には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部(高田郡高宮町)で和智誠春の饗応を受けたがまもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6(1563)年急逝しました。菩提寺は常栄寺です。

平成2(1990)年3月吉田町教育委員会
永禄6(1563)年7月10日吉田郡山城西方多治比まで帰着、孝心厚い隆元は苦闘している父を想い(郡山城中に入り休養をとることなく)ここに11歳の嫡子・幸鶴丸(輝元)を呼んで対面(これが父子今生の別れとなります)。
7月12日佐々部式敷蓮華寺に到着、ここに滞在、諸方より兵を部署して8月5日雲州鹿城攻めに出発する予定で、8月3日和智誠春(わちまさはる)の館(仁後城か)に招かれ饗応を受けたが、帰営の後、翌(8月4日)未明急逝。
死因は、食傷(しょくしょう:食あたり)とも毒殺ともいわれていますが真相は不明です。後年、誠春と隆元に近侍した赤川元保は元就の嫌疑によって誅伐(ちゅうばつ)されました。
1997(平成9)年NHK大河ドラマ・毛利元就で少しばかり毛利元就のことを知ってきました、上川隆也演じる毛利隆元の急死した前後の場面はそれとなく記憶があるのです。そんなことを思いながら隆元のお墓にお参りしました。
 08.06.03裕・記編集

08.07.03.撮影
広島県安芸高田市吉田郡山城跡墓所

08.07.03.撮影

08.07.03.撮影
大膳大夫從四位下大江隆元朝臣之墓

08.07.03.撮影
明治41(1908)年4月2日追贈 正三位

08.07.03.撮影



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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