百万一心・碑

  安芸高田市吉田郡山城跡の毛利元就墓所前に建立されている「百万一心・碑」です。
百万一心(ひゃくまんいっしん)とは、吉田・郡山城の拡張工事の際に毛利元就がそれまでの風習であった人柱の代わり※に高さ六尺、巾二尺(高さ≒1.8m×巾≒0.6m)の巨石に「百万一心」と書き、それを彫らせて埋めさせ人柱に代えたと云われています。
石碑をよく見れば「一日一力一心」とも読めます「日を同じくし、力を同じくして、皆で協力すれば、何事も成し遂げられる」とも解釈できます。しかし毛利元就の言葉かどうかは定かではありません。
百万一心碑を人柱の代用にすること自体は、(毛利元就の居城吉田)郡山城が尼子詮久軍に包囲された際(吉田郡山城の戦い)に、陶隆房(晴賢)と共に毛利軍の救援に駆けつけた大内軍の将・弘中隆包(隆兼)の助言によるものという説もあります。
この石碑は、1816(文化13)年長州藩士だった武田泰信が発見し、拓本の要領で写しを取った後、
1882(明治15)年に写した拓本を毛利元就を祀る豊栄神社に奉納し、その後、吉田町をあげて必死に郡山全山を探索したものの、礎石の実物は発見されなかったそうです。
難航する郡山築城の際、巡礼の少女を人柱にしようとした時、元就が「何百の人柱をたてても協同なくして城は守れない」と、少女を助ける代わりに「百万一心」と書いた石碑を本丸の石垣に埋めた、という云い伝えもあります。
毛利元就の伝説となっているものに、一本の矢を折るのはたやすいが束ねれば折れにくいという、結束の意味をこめた「三矢の訓(おしえ)」は、わたしは学校で学んだ記憶はないように思うのですが、有名な話ですね。この「百万一心」の話も命の貴さと協調精神を養うことを忘れつつある現代日本には必要なのではとわたしは思うのです。
 08.08.04裕・記編集

08.07.03.撮影
広島県安芸高田市吉田郡山城跡 (毛利元就墓所前)

08.07.03.撮影

08.07.03.撮影

08.07.03.撮影



「民話・伝説」編



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