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安芸高田市吉田町吉田の安芸高田少年自然の家に建立されている「三矢の訓跡・碑」です。 |
(正面) |
三矢の訓跡 毛利元道(もと公爵:1903-1976)書 |
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※読みは、「さんしのおしえ」とか「みつやのおしえ」と読むようです。 |
(裏面) |
元亀2(1571)年6月14日毛利元就卿この地に逝く
昔よりこの所を御里屋敷とよびその居館の跡と伝え卿死に臨み諸子を集め弓矢の訓を垂れし跡なりというよって碑をたて以て後世に遺さんとす |
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昭和31(1956)年11月 吉田町立大江中学校生徒会建之 |
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三矢の訓え(三本の矢) |
『元就(1497-1571)が、死の床に三人の息子:隆元(1523-1563)・元春(1530-1586)・隆景(1533-1597)を呼び寄せ、一本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は三本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけました。』という、これが有名な「三本の矢」の逸話で、みなさんご存じの話ですよね。 |
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死に床とすると既に隆元は死んでいたので「ある日」とする話もあります。
わたしの愛読書:中国新聞社発行「ひろしま通になろう」では、『隆元は、既にこの世になく、あり得ない。明治以降に小学校の教科書で紹介されてから全国に(この話が)広まった』としています。 |
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毛利元就が1557(弘治3)年に三人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書が残っており、これは、十四ヶ条からなる文章で、三兄弟が一致協力(協同一致の精神)するように述べていることから「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」といわれ、これが、三矢の訓えの元とも云われているようです。 |
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前(2008年)回吉田町に立ち寄った時に、「百万一心」碑はみて頁に編集したのですが、この「三矢の訓の碑」はみなかったので、機会があればみたいなと思っていたのです。
今(2011年)回広島県の「ひろしま観光ナビ」の地図をみて、だいたいあそこだなと思って立ち寄ったのです。この辺りだなと車を降りて探したのですが見つからないので、歩いておられる方に聞くと、少年自然の家に建立されていますよという事で、丁度少年自然の家に行っておられると云う事で、案内していただき、建物の後ろ側(中庭)に建立された「三矢の訓跡」碑の場所も教えていただきました。 |
11.05.13裕・記編集 |