史蹟 郡山城阯・石碑
安芸高田市吉田町吉田に建立されている「史蹟 郡山城阯・碑」です。
正面: 史蹟 郡山城阯
側面: 昭和十六年八月建設
史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ昭和十五年八月文部大臣指定
「史蹟名勝天然紀念物保存法」とは、1919(大正8)年4月10日に「大正8年法律第44号」として公布され、同(大正8)年6月1日に施行されました。現在は、文化財保護法(昭和25年法律第214号)として受継がれています。
         郡山城跡   名称:毛利氏城跡郡山城跡  国指定:史跡
 指定:昭和15(1940)年8月30日、追加指定:昭和63(1988)年2月16日
  郡山城は、南北朝時代の建武3(1336)年毛利時親(?-1341)が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就(1497-1571)が郡山全山を城郭化し、さらに輝元(1553-1625)が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城でした。
郡山城は、北流する可愛川(えのかわ)と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がる。
遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られます。
天文9(1540)年9月尼子晴久(1514-1562)が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌(1541)年1月尼子軍を敗退させました。
その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州まで勢力をのばしました。
天正19(1591)年輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められました。郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡です。
毛利氏は、安芸の国人領主から中国地方有数の戦国大名になりました。
山中、山麓には、毛利氏歴代の墓所をはじめ常栄寺、洞春寺(とうしゅんじ)、満願寺などの菩提寺の跡があります。これらの諸寺は、毛利氏にともない広島、山口へと移転しました。
「三矢の訓跡」碑を拝見した後、少年自然の家の前で「毛利公居館・御里屋敷跡」みて、隣の安芸高田市地域振興事業団の敷地で「毛利元就・像」を見た時、道路を挟んでこの文部省が建てた「史蹟 郡山城阯」石碑をみましたので撮影しこの頁を編集しました。
 11.05.22裕・記編集

11.05.04.撮影
広島県安芸高田市吉田町吉田278-1

11.05.04.撮影
説明板の画像を使用しています



「古墳遺跡遺構など」編



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