頼杏坪役宅(運甓居)

  三次市三次町に現在も残されている「頼杏坪役宅(運甓居)」です。
県史跡   頼杏坪(らいきょうへい)役宅  1937(昭和12)年5月28日指定
頼杏坪(1756-1834)は、宝暦6(1756)年現在の竹原市に生まれ兄の頼春水(頼山陽の父)とともに儒学をもって広島藩につかえ、宋学を首唱(しゅしょう)しました。
文化8(1811)年50歳を過ぎたころから郡代官、郡廻(ぐんまわ)りとして備北四郡(三次・恵蘇エソ・三上ミカミ・奴可ヌカ)の民政に尽くし専売制の強化がいかに農民の利益を奪うかに注目し、郡村犠牲のもとに城下町の富強をはかることの矛盾を鋭く指摘しました。しかし建議は入れられず、代官を罷免されて文政11(1828)年から3年間、三次町奉行を勤めました。杏坪は、彼の罷免で郡中が動揺し再び郡廻りを兼務することになったほど郡民に信望が厚かったといわれています。
中国東晋時代の役人であった陶侃(とうかん:259-334)が毎朝夕に百枚の敷瓦を運んで他日の労働に備えた故事に因んで運甓居(うんぺききょ)と名づけられた三次町奉行当時の役宅(≒130u・平屋・単層茅葺)は今もその簡素な遺風をしのばせています。
運甓(うんぺき)を漢和辞典をひけば
『体力を強くするため朝夕に百箇のかわらを運んだ晋の武将・陶侃(とうかん:259-334)の故事』
(安楽な生活が続くと有事の際に堪えられないから体力をつける行動を課していたという故事のようです)
内部の見学には予約が必要だということで外からしかみることができませんでしたが、三次ふれあい館からみると役宅全体が撮影できるように思い、お願いしてふれあい館に上がらしていただき2階ベランダから撮影しました。
内部は杏坪が親しんだ二畳の書斎や庭が当時のままに伝えられ、当時の簡素な生活をしのぶことができるそうです。
08.07.29裕・記編集

08.07.03撮影
広島県三次市三次町1828-2 (三次ふれあい館裏)

08.07.03撮影

08.07.03撮影

08.07.03撮影
単層茅葺の屋根、少しばかり見えた縁側・・・
そうがく
宋学
中国、宋代に出現した新儒学の総称で、主として朱子学をさす。
漢・唐の訓詁(くんこ)学にそのまま依拠することなく、宋代の合理的精神によって古典を主体的に解釈し、理気論によって儒教の教理を哲学的に体系化し、士大夫(官僚)自身に忠誠な聖人となることを志向する意識を浸透させたので、理学(性理学)とも呼ばれる。朱子学と対立した宋の陸九淵らの心学派や、陳亮・葉適(しようせき)らの事功学派(永嘉学派)なども広義には含まれることがある。
しゅしがく
朱子学
南宋の朱熹によって大成された儒学説。禅学の影響に対抗しつつ、周敦頤(しゆうとんい:1017-1073;北宋の学者)に始まり程丈エ(ていこう)・程頤(ていい:1033-1107;北宋の儒学者)などのあとをうけて旧来の儒教経典に大胆な形而上学的新解釈を加えて成立。理気説による宇宙論・存在論、格物致知を基とした実践論を説く。日本には鎌倉時代に伝えられ、江戸時代に普及して、官学として封建社会の中心思想となった。朱学。宋学。道学。
そう

(中国の国名)
1 周代の諸侯国の一((?-前286))。殷(いん)の宗族微子啓が封ぜられ、商邱(しようきゆう)に都し殷の遺民を統治したという。斉・魏(ぎ)・楚(そ)の三国に滅ぼされた。
2 南北朝時代、南朝最初の王朝。東晋の武将劉裕が恭帝の禅譲を受けて建国(420-479)。都は建康。八世で武将の蕭道成(しようどうせい)に帝位を譲った。劉宋。
(3) 五代十国を統一した王朝。趙匡胤(ちようきよういん)がべん(開封)に都して建国(960-1279)。遼(りよう)・西夏の圧迫を受け、1127年金軍の侵入によって江南に移り(靖康の変)、臨安(杭州)に都した。これ以前を北宋、元軍に滅ぼされるまでを南宋という。



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