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備後三次(現在の広島県北側三次市)、江戸時代中期を舞台とし、稲生平太郎と妖怪たちとの体験をつづったのが「稲生妖怪物語」です。 |
稲生武太夫化物退治の物語は、三次実録物語、稲生物怪録(柏本、平田本)や絵巻物では、井丸本絵巻物、堀田本絵巻物、国前寺本絵巻物等があり、平田篤胤(ひらたあつたね:1776-1843):江戸後期の国学者)が紹介したことで全国区の妖怪物語となり、昔から有名な物語だそうです。
その要旨は、三十日間にわたり化物が手をかえ品をかえて16歳の平太郎を襲うのですが、豪胆な平太郎は少しも恐れず、ついに化物は根負けして小槌を置き暇を告げて立ち去っていくこということになっています。 |
稲生武太夫(平太郎)の近所に三井権八という力自慢の男が住んでいて田舎角力の大関格で、平太郎はそこへ相撲の手習いに行き力業を練っていきます。間もなく権八を負かすようになり、もうこの付近では平太郎の相手になるものはいなくなります。
平太郎が16歳になった年の5月、権八と二人で肝試しをやることになり大風雨の夜半に比熊山の頂上に一人で登り何か目印をつけて帰ることにしました。風雨のある夜半、平太郎は一人で蓑、カサをつけて比熊山に登り頂上に印しをつけて帰りました。権八も後から登りましたが、その豪胆さには舌を巻きました。またそれから後のある1日、平太郎と権八は二人きりで比熊山の頂上に登り終夜、妖怪変化の百物語をしました。その場所は三吉氏の居城時代、城内のある者が冤罪で打首となり恨みを残して死んだ骸を埋めた塚などもあり、山頂の夜気はそくそくとして肌寒く、梢をならして夜風が渡り実に鬼気迫るような所がありましたが、平太郎は平気な顔をして話をしました。
やがて7月朔日(ついたち)になり、その夜から突然、おそろしい化物が襲って来はじめました。それから晦日(30日)の間、毎夜毎夜化物が襲って来てきます。
30日になると平太郎も今夜こそは化物をし止めてやろうと待ち構えていました、その日の化物を追いやった後、40歳ばかりの武士風の
男が大小を差して現れ、平太郎の前に座って一礼して云うには「さてさてあなたの豪胆さにはすっかりまいりました。降参致します。実は私は山本五郎左衛門という魔王ですがねその魔王の頭となるために16歳になる大勇のある少年を100人ほど、化かしまどわさなければなりません。今まですでに85人を化かしまどわしてきたのですが、どうしてもあなたには勝てません。自分の競争相手に悪五郎という者が
おりますが、こいつはなかなか強く自分が立ち去った後でまたいつの日か悪五郎がやってくるか知れません。もし来たら既にこの夏、五郎左衛門がやって来て、こうした次第で負けて立ち去ったといわれるがよい。それでも悪五郎は技をつみ手強いやつですから、あなたに挑んでくるかも知れません。もしあなたの手に余るようなことがあれば自分もやって来て加勢をしますからいつでもお知らせください。そのときの合図にはこの小づちをさしあげますからこれで大地を叩いてください。」と云って小づちを平太郎の前に置き表へ出て行きました。外には稀有な形をした多くの供が並び、籠に入った五郎左衛門を高くかつぎ上げつつ雲中に姿を消して行きました。この日以来化物は現れることなくなりました。
(30日間の妖怪物語には、それぞれの本で違いがありますが一例を下記に整理してみましたがあくまで参考です) |
2006年交流ウォークで訪ねた(広島の)本照寺で、ご住職に稲生武太夫のお墓を説明していただくまでは、わたしは稲生武太夫のことも稲生妖怪物語のこともまったく知りませんでした。
今回、交流ウォーク探検隊で、(三次出身の)増田先生に案内していただき、稲生妖怪物語の舞台にもなった比熊山の全山が見える場所や稲生武太夫碑などへ案内していただき撮影しました。 |
※稲生妖怪物語などの資料は三次市教育委員会発行:『三次市歴史民俗資料館調査報告第十集「妖怪いま甦る」』を参考にしました。 |
08.07.23裕・記編集 |