ひぐまやま じょうせき
比熊山 城跡
  三次市三次町の比熊山に築城されていた「比熊山城跡」についてこの頁では取り上げました。
※稲生物怪物語の発端であった稲生平太郎(武太夫)が肝試しで登ったのがこの比熊山でした。
毛利ゆかりの史跡 比熊山城跡  三次市三次町     三次市・三次市教育委員会
代々、畠敷町の比叡尾山城を居城としていた三吉氏ですが、戦国時代の天正年間(1573-1592)になるとこの比熊山に築城します。
比叡尾山(ひえびやま)城を廃墟した理由は解りませんが、おそらく畠敷町の五日市が三次町に移ったので河川交通の発達などから将来的に三次の地を城下町として機能を西武する必要があったのでしょう。
頂上の標高331mの城跡は、戦時中に畑に転用されていたとはいえ、全山に郭・土塁・井戸・竪掘の構えを残しています。特に千畳敷と呼ばれ本丸に相当する郭は90×50mの広さで東端には高さ3m、幅5m、長さ30mの基壇も残り相当な建物があったことを想像させます。現在は鳳源寺境内から山道が上っていますが本来の大手道はさらに西の谷にあり、登り切った所には両側を土塁で囲んだ桝形と呼ばれる廓が設けられ正面玄関の役割を果たしていました。
三吉氏は関ヶ原の合戦(1600年=慶長5年)で豊臣方に味方した毛利氏の武将であったため、改易となり三次の地を去ります。築城からわずかの年月でしたが、当時の築城技術を知る上で当城は大変貴重な史跡です。
  稲生武太夫の稲生妖怪物語から比熊山を知ったわたしですが、今回、交流ウォークの増田先生(三次出身)に案内していただき、三吉氏のお城があったことを知りました。
城跡の説明板が三次市によって設置されていましたので、それを参考にしてこの頁を編集しました。
13.10.20更新    08.07.25裕・記編集

’08.07.03.撮影
広島県三次市三次町 比熊山

’08.07.03.撮影

’08.07.03.撮影
(この略測図は説明板のものを使用しました)
比熊山頂上には中世末期の山城跡があります。この城跡は、三次町の「国郡志下調書出帳」によれば、天正19(1591)年三吉広高が比熊山の東方4kmの地にあった比叡尾山城を移したのに始まったといわれています。本山は初め日隈山の字をあてていましたが、比叡尾の比をとり、山の形が熊の寝る姿に似ているところから隈を熊に改めたと云われています。近世城郭に移行する直前の山城で、俗に千畳敷(せんじょうしき)と呼ばれる本丸跡や井戸・土塁・堅堀の遺構があります。

’08.07.03.撮影
(この地図は説明板のものを使用しました)

13.10.19.撮影
太歳神社でみた案内板のものを使用しました)



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