(鳳源寺の) 浅野長澄・菩提塔
  三次市三次町の鳳源寺に建立されている「浅野長澄・菩提塔」です。
浅野 長澄(あさの ながずみ:1671-1718)
安芸広島藩主三代浅野綱晟の次男として誕生(長男は広島藩四代藩主・浅野綱長)。母は左大臣九条道房の息女逸姫。天和元(1681)年2月将軍徳川綱吉に拝謁。三次藩第二代藩主浅野長照は病弱で嫡子もなかったため、天和2(1682)年8月三次浅野家に養子に入った。
貞享2(1685)年12月従五位下土佐守。元禄4(1691)年6月幕府奥詰を務めたが、12月養父長照の隠居により家督を相続、同時に奥詰を免ぜられ、藩政に集中する。元禄5(1692)年4月暇をえて国許・三次に初めて入った。元禄14(1701)年3月14日親戚・播磨赤穂藩主浅野長矩が吉良上野介義央に刃傷に及び、切腹改易となると、長矩の正室・阿久里を三次藩下屋敷に引き取った。享保3(1718)年8月三次陣屋で死去。鳳源寺に葬られた。法名・霖應熊山天柱院。子に長経、長寔。
義士堂の横に浅野長澄公の菩提塔が建立されている表示板がありましたので、みようと墓地の小道を上り突き当たった所に建立されていたのがこの「浅野長澄公菩提塔」でした。以前訪ねたときに撮影していた「浅野長照、浅野長経、浅野長寔合塔」とともに編集しました。
浅野長治(三次藩初代)→長照(二代)→長澄(三代)→長経(四代)→長寔(五代)。
(備後)三次藩は1632(寛永9)年〜1720(享保5)年という(短い期間の)藩であったことを(わたしは)知りました。
09.04.29裕・記編集

09.04.07.撮影
広島県三次市三次町1057  鳳源寺

09.04.07.撮影

09.04.07.撮影

09.04.07撮影

09.04.07撮影
浅野長照、長経、長寔合塔

08.07.05.撮影
浅野長照、浅野長経、浅野長寔合塔
あさのながてる
浅野 長照
1652-1705
三次藩二代藩主。広島浅野藩二代藩主光晟の三男(次男・長尚が長治に先立って死去し、代わりに長治の養子となる)。従五位下式部少輔。1675(延宝3)年1月養父・長治死去、3月23日家督相続。1682(天和2)年8月長兄・綱晟の次男浅野長澄を養子に迎える。1691(元禄4)年12月隠居、長澄に家督を譲る。法名は壁龍禪梭騰雲院
あさの ながつね
浅野 長経
1709-1719
三次藩四代藩主。三代藩主・浅野長澄の三男。幼名は撫三郎、又六郎。
浅野長経は3代藩主浅野長澄の三男として宝永6(1709)年に三次で生誕した。長兄と次兄は早世したため、長澄の嗣子となる。享保3(1718)年に父が亡くなったためその遺領を継いだ、しかしこの時年齢を3歳偽って宝永3(1706)年生まれとして幕府に届出。徳川吉宗に拝謁。しかし、享保4(1719)年4月江戸で11歳で没し(嗣子が無かったため)三次藩は除封されて本家の広島藩に還付された。法名は鳳章院孝岳紹胤。
その後三次藩は、長経の弟の浅野長寔への相続が認められて再興する。享保5(1720)年に長寔が8歳で没したため再度除封となる。
あさの ながざね
浅野 長寔
1713-1720
三次藩五代藩主。通称は主鈴(しゅれい)。
兄・浅野長経の後を受け遺領を継いだが、享保5(1720)年に8歳で夭折したため、三次藩は除封され、その所領は本家である広島藩に還付された。
浅野長寔は三代藩主浅野長澄の四男として1713年に三次で生誕した。父の跡目は長経がついでいたが、享保4(1719)年4月11歳で没し無嗣絶家となり除封され、5月に所領は一旦は広島藩に還付された。しかし10月弟・長寔の相続が認められ三次藩は再興された。しかし、長寔は翌(享保5)年5月8歳で没し、三次藩は再び廃藩となり、再興されることは無かった。



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