|
|
交流ウォークの時、最近は二宮金次郎の像を見かけなくなりましたよね〜との参加者の声も聞きました、広島市立宇品小学校にはまだ残っていると案内していただいたのです。わたしが子どもの頃は何処の小学校(転校で2つ学校にいった)でも見かけたなと思い撮影しました。
並んで紀元2600年記念碑(1940年=昭和15年)がこれも小学校にいまだ残ることも稀有なことではとおもったのです。 |
| 現在は鉄筋コンクリート4階建ての校舎に建替えられていますが、資料によれば「爆心地より約3.7km校舎小破、原爆被災者の救護所となった」と記述があります。 |
|
 |
|
|

05.12.17撮影 |
| 広島市南区宇品御幸4-5-11 |
|

05.12.17撮影 |
| 二宮金次郎像と紀元2600年記念碑 |
|
|
|
 |
| 二宮尊徳先生幼時之像 |
 |
 |
皇太子殿下御誕生記念として本市堺町高田ミツ氏が寄付。
昭和10(1935)年4月25日
廣島市長
横山金太郎※ |
|
|
|
宇
品
尋
常
高
等
小
學
校
職
員
児
童
父
兄
建
之
|
紀
元
二
千
六
百
年
記
念
|
|

05.12.17撮影 |
 |
|
横山金太郎※
(1868−1945) |
広島県現庄原市東城町出身。東京法学院(現・中央大学)卒。
広島県第三区選出立憲民政党衆議院議員(当選9回)
他に判事、台湾総統府法院判官、広島県会議員、広島市会議員、文部政務次官、十六代広島市長、1935(昭和10)年2月-1939(昭和14)年2月、広島弁護士会長など |
| ※資料は |
増田修著:広島法律学校沿革誌を参考にしました。 |
|
にのみやそんとく
二宮尊徳
(1787-1856) |
江戸後期の農政家。通称、金次郎。相模国の人。
合理的で豊富な農業知識をもって知られ、小田原藩・相馬藩・日光神領などの復興にもあたる。その陰徳・勤倹を説く思想・行動は報徳社運動などを通じて死後も影響を与え、明治以降、国定教科書や唱歌などにも登場。 |
ほうとくしゃ
報徳社 |
1843(天保14)年二宮尊徳の指導のもと小田原に設立された農民扶助のための相互融資機関。尊徳の死後も門弟により各地に相次いで設立され、独立自営農民を主体とする結社として明治維新以降も発展、1924(大正13)年大日本報徳社の結成に至った。 |
宇品小学校の二宮尊徳像は昭和10(1935)年建立されたようですが、金属ではなくコンクリート製であったので戦争中の金属供出に関係がなく現在も残っているものと思ったのでした。
※近代国家の中で勤勉の象徴として修身教育に取り上げられ、全国の尋常小学校、高等小学校に二宮金次郎像が建てられたそうです。敗戦によって連合軍総司令部(GHQ)の指令により廃棄されたといわれるが、像の減少と連合軍総司令部には特に関係はないそうです。
戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によってなくなったため、石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあり、像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970(昭和45)年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向しているそうです。 |
|
|
宇品小学校沿革概要
| 1897 |
明治30年 |
広島市立宇品尋常小学校創設(宇品神田五丁目) |
| 1917 |
大正6年 |
高等科が設立され、広島市宇品尋常高等小学校と改称 |
| 1928 |
昭和3年 |
新校舎新築移転完了(現在地:宇品御幸4-5-11へ) |
| 1939 |
昭和14年 |
高等科が分離され、広島市立宇品尋常小学校と改称 |
| 1941 |
昭和16年 |
国民学校令により、広島市立宇品国民学校と改称 |
| 1945 |
昭和20年8月6日 |
原子爆弾により校舎は小破、教員・児童に被害あり。 |
| 1947 |
昭和22年 |
現在の広島市立宇品小学校と改称 |
| 1955 |
昭和30年4月1日 |
広島市立宇品東小学校が創設され、児童833名が分離。児童数1741名となる。 |
|
|
沿革資料は宇品小学校の資料を参考にしました |
|
| 関連頁:宇品東小学校 |