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南区宇品御幸の宇品小学校に建立されている「二宮尊徳先生幼時之像」です。 |
皇太子殿下御誕生記念トシテ児童訓育ノ爲メ亡夫ノ遺志ニ依リ本市堺町高田ミツ氏之ヲ寄附ス |
昭和十(1935)年四月二十五日 廣島市長横山金太郎 |
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現・明仁天皇の1933(昭和8)年12月23日誕生の記念 |
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近代国家の中で勤勉の象徴として修身教育に取り上げられ、全国の尋常小学校、高等小学校に二宮金次郎像が建てられたそうです。敗戦によって連合軍総司令部(GHQ)の指令により廃棄されたといわれている事もあるそうですが、像の減少と連合軍総司令部には特に関係はないそうです。
戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によってなくなったため、石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあり、像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970(昭和45)年代以降、校舎の建替時などにより徐々に撤去され、像の数は減少傾向になっているそうです。 |
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宇品小学校の二宮尊徳像は昭和10(1935)年建立、金属ではなくコンクリート製であったので、戦争中の金属供出に関係がなく現在も残っているものと(ここ宇品小学校)でみた時思ったので、そういうことで、2006年頁を編集したのです。 |
ところが、(広島市)市内の学校を訪ねた時に、この像と同じ、二宮尊徳先生幼時之像を二つ三つとみているときに宇品小学校だけがコンクリート製の像ではなく各小学校の像がコンクリート製で同じ像という事を知りました。 |
そこで、わたしは考えたのです。
現在(台座の上)の像は(コンクリート製で大きさも台座に比べ小さいと思うのです)戦後建立されたものとわたしは以前別の学校で拝見した時から思っています。戦前は、銅像であったものが、戦時金属供出で無くなったので、戦後再建しようとした時経済的なことからコンクリート製の像になったと思っています。 |
金属類回収令
(勅令第835号) |
戦時中の1941(昭和16)年8月30日に公布され、昭和16年9月1日より施行、鉄や銅など、銃や砲弾に使う戦略物資の不足を補うため、政府が公布しました。
家庭のなべ・釜や寺院の釣り鐘なども供出されたそうです。 |
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金属類回収令(昭和18年勅令第667号)により、勅令第835号は1943(昭和18)年8月12日をもって全部改正されました。
(この時に各学校の二宮尊徳像が回収されたそうです)
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2005年交流ウォークの時宇品小学校で、今も残る二宮金次郎像を見て頁を編集しました。
ここ宇品小学校だけがコンクリート製の二宮尊徳像ではなく、いまの市内の小学校にある像がみなコンクリート製と知りましたので、(戦前は銅像で建立されたものが、戦時中の金属供出でなくなり)戦後再建される時コンクリート製になったのだと思ったのです。 |
交流ウォークの増田義法先生が、ここ宇品小学校の校長先生を以前されていましたので、尋ねたのです。
増田先生の話では、いまの像は戦後再建されたものと聞いていると教えていただきましたので、わたしが考えたことが見当違いでなかった事を確かめられました。今回、宇品小学校の頁から分離独立させました。 |
10.12.27分離再編集 06.01.16裕・記編集 |