うじなうんが(けいかく)あと
宇品運河(計画)跡

  南区宇品海岸に戦前計画された運河で、いまはその残り香はわずかしかない「宇品運河計画跡」です。
『1931(昭和6)年〜1933(昭和8)年広島市は人絹工場を、宇品に誘致しました。
そのとき養魚場の一部が工場の物資を運ぶ運河として計画され、運河の工事は1933(昭和8)年〜1941(昭和16)年頃まで続けられたそうですが、運河の入口が軍用道路と交差したため陸軍省は好意的ではなく、1941(昭和16)年の太平洋戦争から中止になったそうです。その名残を残す人工の石垣がいまも残っています。』

錦華(きんか)人絹広島工場といい(山口県の)防府と誘致競争の末、1934(昭和9)年10月操業を開始しました。
誘致の決め手:
陸軍運輸部の北側の臨港土地会社の20万坪が一手に買収できること。
また、広島市が水道の敷設、新たな運河の掘削、電気料の軽減をするという条件を出したことなどでした。
1934 昭和9年10月 錦華人絹広島工場操業を開始。
1938 昭和13年7月 錦華人絹は錦華紡績に吸収合併されました。
1941 昭和16年 錦華紡績は合併により大和紡績が設立、大和紡績広島人絹工場となりました。
1942 昭和17年12月 戦時体制化における企業整備で操業休止し、設備の大半を屑化(くずか)供出。
1943 昭和18年2月 陸軍が賃借、陸軍船舶練習部などが利用することになりました。
1945 昭和20年8月6日 原爆による建物の被害は比較的軽微であったが窓枠や硝子で負傷者も出ました。
9時過ぎから続々と負傷者が避難してきた。
昭和20年8月7日 朝には3000〜4000人の負傷者で埋めつくされました。
昭和20年8月9日 臨時陸軍野戦病院(第1陸軍病院宇品分院)が設置され、延6000人以上を収容。
昭和20年10月 陸軍から返還、一部を宇品引揚救護局に賃借(〜1948年9月)
1948 昭和23年6月 日本純生食品工業に賃借(〜1954年11月)
1961 昭和36年1月 敷地、建物の大半を東洋工業(現マツダ)に売却
じんけん
人絹
「人造絹糸(じんぞうけんし)」の略。「レーヨン(rayon)」に同じ。
ぼうせき
紡績
短い繊維を平行に並べ、引き伸ばして撚(よ)りをかけ、一本の糸にすること。
(たいへいようせんそう)
太平洋戦:
第二次大戦のうち、アジア太平洋地域が戦場となった日本と米・英・オランダ・中国など連合国との戦争。
日中戦争の行き詰まり打開のため、1941(昭和16)年12月8日、日本は米・英に宣戦、一時は南方諸地域を制圧したが、ミッドウェー海戦を転機に1942(昭和17)年後半から守勢一方となり、1945(昭和20)年8月米国の広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦などによりポツダム宣言を受諾して、8月15日無条件降伏。当時は大東亜戦争と呼ばれていました。
交流ウォークの時に教えていただいたので、いまもわずかですが残る石垣を撮影したのですが、その人絹工場が何と云う会社からはじまった疑問は膨らむばかりでした。
今それから資料をみてわかったlことをまとめてみましたが、まだまだわからぬことばかりですので今後とも情報を集めようと思っています。
2010年広島市郷土資料館で、広島の競馬場の企画展示をみたとき宇品地区の地図を撮影していたのです。
その地図を2014年のいまになりましたが、ここで取り上げた「養魚場」「錦華人絹」などが記述していることを思い出しましたので、地図を加え頁を再編集しました。
郷土資料館展示資料の地図にある「錦華人絹」西側の“中國グランド”は、1931(昭和6)年11月に完成した広島競馬(場)で、面積3万3千坪、工費8万5千円を費やしました。
しかし、錦華人絹(株)の工場誘致に伴い、僅か2年(1933年)で廃止され大洲町に移転することになりました。
1933(昭和8)年4月工場建設地鎮祭が執り行われたそうです。
14.08.04.再編集   06.01.21裕・記編集

06.11.28撮影
広島市南区宇品海岸3-8

05.12.17撮影
わずかに残る石垣(先の方も見ましたがこの辺りだけでした)
昭和8(1933)年「最新広島市街全図]  (広島市郷土資料館展示資料を撮影)
点線で運河計画かなと思う線を入れてみました(が正確ではありません)



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軍用桟橋(六管棧橋)
宇品運河(計画)跡





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