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廿日市市佐方の洞雲寺に建立されている「友田興藤のお墓」です。 |
友田(藤原)興藤の墓 廿日市市指定史跡 昭和50(1975)年1月14日指定 |
友田興藤は厳島神主の藤原神主家の一族。永正15(1518)年大内義隆が神領を直接支配したことに反抗し、実力で神主になり、度々桜尾城を中心に攻防を繰り返しました。天文10(1541)年大内氏の攻撃に抗しきれず、城に火を懸け自刃しました。
友田興藤の墓は、総高199.5cmの花崗岩製の宝篋印塔です。塔身部の正面格狭間の中に「興藤」、その横に「天文9(1540)年庚子八月日」と刻んであります。
興藤の没年は天文10年4月6日といわれていますので、この印塔は興藤が在世中に造立した逆修塔とみられています。造りに無骨さが感じられますが、力量感のある宝篋印塔です。紀年銘もあり、室町時代末期の標準的な宝篋印塔として重要です。 |
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平成12(2000)年3月廿日市市教育委員会廿日市市教育委員会 |
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藤原氏が承久3(1221)年鎌倉幕府から神主職を任命されましたがすぐには当地に下向せず、数代後に当地に下向して活動し、西の大内氏の庇護を受けながら国人領主化していき、その後神領地を巡って安芸国守護武田氏との抗争、神主職継承争い、神主家と大内氏の抗争、大内氏を離反と歴史を刻んできましたが友田興藤が大内氏に滅ぼされたことにより約320年間続いた厳島神主家の藤原氏は滅亡したそうです。 |
2007年交流ウォーク探検隊としてこの洞雲寺を訪ね教えていただくまでまったく知りませんでした。 |
07.09.11裕・記編集 |