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廿日市市佐方の洞雲寺に建立されている「陶晴賢のお墓」です。 |
陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)の墓 廿日市市指定史跡 昭和50(1975)年1月14日指定 |
陶晴賢は室町末期の武将。陶興房の二男。初名、隆房。大内氏の重臣として活躍していましたが天文20(1551)年8月主君の義隆父子を襲い自刃させ、大内氏の領国を制圧しました。
弘治元(1555)年10月の「厳島合戦」で、水軍に勝る毛利元就の奇襲に敗れ、厳島で自刃し、桜尾城において首実検の後、この洞雲寺に葬られました。
後に現在のような宝篋印塔を墓石としています。墓石は三段の花崗岩製と安山岩製の基壇の上に建ち、印塔自体は軟質な安山岩製であります。総高129cmでこの宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が厚くなるなど、各部に形式の戦国時代から江戸初期にかけて山口地方から広島地方にみられる地方色の濃い形式の退化したところや、また風化した跡が認められます。歴史上著名な武将の墓として貴重です。 |
平成12(2000)年3月廿日市市教育委員会 |
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厳島の戦い |
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、陶晴賢は自ら3万の大軍を率いて安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾ノ城を攻略しようとしたが、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れ、さらに毛利軍によって本陣を襲撃されて敗北し、自害した。享年35。 |
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陶晴賢の辞世が「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」いつごろからこの辞世を用意していたのか、わたしには分かりませんが、主君に対し謀反を起こすことを決意したときに、その後の自分自身に起こる敗戦というものを予期していたのかなと(わたしは)思ったのです。 |
07.09.10裕・記編集 |
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