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廿日市市佐方の洞雲寺に建立されている「毛利元清夫妻のお墓」です。 |
毛利元清夫妻の墓 廿日市町指定史跡 |
毛利元清(1551-1597)は元就の四男(桂元澄の後をうけて桜尾城主になりました)。元清は長府毛利家の遠祖です。初め備中猿懸(岡山県矢掛町)城主穂井田氏を嗣ぎ、東方における大鎮でした。
元清は(1589年起工の)広島築城の際には二宮就辰(1546?-1607)と共に普請奉行として才覚を振るっており、桜尾城に約26年間在城して1597(慶長2)年に没しました。法名を洞雲寺笑山と号しました。
元清の墓は花崗岩製の宝篋印塔で基礎の格狭間※中央に「笑山」と刻してあります。夫人は来島通康(伊予の水軍:1519−1567)の娘で基礎格狭間には「松渓妙寿」と刻してあります。 |
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(こうざま)
格狭間: |
壇・台などの側面や唐戸などに施される、上部は火灯形、下部は椀形の曲線から成る装飾的な刳(く)り形。 古くは牙象(げじよう)・眼象(げんしよう:げじよう)といった。 |
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毛利といえば3本の矢にたとえられる毛利隆元・吉川元春・小早川隆景、三兄弟の事は知っていましたが、側室の子四男の元清はこのお墓をお参りできてはじめて知りました。備中三村氏の一族穂井田元資(庄元資)の養子となったそうで、1592年子の毛利秀元が毛利輝元の養嗣子となったため、自身も毛利姓に復したそうです。そのようなことも今回チト調べて知りました。 |
07.09.13裕・記編集 |