桜尾城跡

  廿日市市桜尾本町にあったという「桜尾城(跡)」を取り上げています。
廿日市町指定史跡  桜尾城址           廿日市町教育委員会 
当城の地は鎌倉(時代)より厳島社家(神主職)たり藤原氏の拠る所にして、厳島神領の中心なり、城は直ちに海に臨みて内湾を扼し、東に岩戸尾、西に藤掛尾など七尾の諸城(篠尾城、越峠尾城、宗高尾城、谷宗尾城)を従え、誠に要害の地なり。
下りて、戦国の世、神領は東に武田、西に大内の狭間にあり、1541(1541)年藤原興藤、戦い敗れて城に火をかけ、三百年の神主家ここに滅ぶ、のち大内、陶、毛利の移封と共に廃城と化す。
この間、折敷畑、厳島の合戦には毛利氏の拠点として世に知られしも、時移り山容改まり、往年の城姿を失う。
  ※資料は設置の説明碑他を参考にしました。
鎌倉幕府の有力御家人であった藤原親実(ちかざね)が厳島神主職に任命されました。
桜尾城は1221(承久3)年藤原親実の築城といわれています。
以後代々世襲し、1541(天文10)年に藤原(友田)興藤が周防の大内義隆に攻められて落城するまでの320余年余桜尾城は厳島神領としてこの地方に君臨しました。
大内義隆が家臣の陶晴賢に謀殺されると、1554(天文23)年に毛利元就が城を攻略して入り、桂元澄(もとずみ)を城主としました。
その後1555(弘治元)年厳島合戦で毛利軍の本陣となり、陶晴賢を敗った毛利元就が凱旋式、陶晴賢の首実検を行ったのもこの桜尾城でした。
厳島神社の神主が武将で権力闘争のなったことなどを知らなかったのですが、洞雲寺でみた友田(藤原)興藤の墓などで知ったり、桜尾城のことを少しばかり知ったりました。
また、
1967(昭和42)年都市計画決定された後、丘陵地を切除し、新たに都市公園として整備さ其れによって桜尾城の残り香がほとんどなくなってしまったと聞きますので、わたしは残念との思いがあります。
07.09.16更新     07.09.15裕・記編集

07.09.15.撮影
廿日市市桜尾本町1-1   (篠尾城があったという篠尾山の天満宮より桜尾城跡をみる)

07.04.12.撮影
廿日市町時代の説明碑がありました 廿日市市桜尾本町11

07.04.12.撮影
桜尾城址 桂公園 桂公園への(南側からの)道)

07.04.12.撮影
桂公園碑

07.04.12撮影
城跡から広島市佐伯区海老山方面をみる



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