(地御前神社根際の)地平天成・碑

  廿日市市地御前の地御前神社西側に建立されている「地平天成・碑」です。
      国道開鑿碑
明治11(1878)年4月起工、明治13(1880)年に竣工した地御前より大竹の県境まで、宮内村の四郎嶺、大野村の四十八坂、玖波村の馬だめし、小方村の飛石の窪など七箇所の難所を越える旧街道に代わる海岸沿いに新しい道の完工を記念し、明治20(1887)年2月建立された記念碑です。
碑の上部には有栖川宮殿下の筆による書で「地平天成」(地平かにして天に成る)と刻まれています。
この言葉は現在の元号「平成」の出展の一部と聞きます(2019年5月1日から御代は変わり令和の時代を迎えていますが)。
。碑裏には街道開墾に携わった方々510名のお名前が刻まれています。
通勤で車窓から木々の隙間から見るだけだった地御前神社をお参りすることも無く時が過ぎ・・・今(200年9月)回交流ウォーク探検隊で、10月の交流ウォーク本番で2度訪れお参りしました。
地御前神社を訪ねたとき、神社東側にこの碑が建立されていました、平成の元号に決まった当時(いまは亡き)小渕官房長官のニュース映像が思い出されたこの碑でした。国道開鑿の碑文に関しては漢文不如意のわたしですので廿日市ボランティアガイドのU氏に教えをこいました。
07.11.15更新    07.11.14裕・記編集
   関連頁:(井口の)開道記念碑

07.10.20.撮影
廿日市市地御前5-17 (地御前神社西側)

07.09.04.撮影
成天平地 碑文は頼元啓謹書とありました
「平成」の由来
  “史記”五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、“書経”大禹謨(だいうぼ)の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。
なお、平成は慶応(1865年4月7日-1868年9月8日)改元の際にも候補に上がったそうですが、そのときは採用されず今回2回目で採用されたそうです。
典拠・故実に由来する反対意見に以下のようなものがあるそうです。
  典拠として史記を書経よりも重視するのはおかしい。書経のみを以て典拠とするべきである。
「平」「成」の文字の中に「干(=楯:たて)」「戈(=鉾:ほこ)」があり「干戈(かんか:戦争を意味する)」に通じる。
平治以来「平」ではじまる元号がないのは、平治が戦役によって混乱した時代であったためであり、「平」ではじまる元号はこれを避けるのが故実である。
(しょきょう)
書経:
中国の、五経の一つ。五十八編。尭(ぎよう)・舜(しゆん)から夏・殷(いん)・周の王者およびそれを補佐した人々の言辞の記録。儒家の理想政治を述べたものとして最も重要な経典。
二十九編は秦の伏勝が伝えた「今文尚書」、十六編は孔子の家の壁中から出たといわれる「古文尚書」に含まれていたもので、後者は後代の偽作とされている。
初めは「書」、のちに「尚書(しょうしょ)」と呼ばれていたが、宋代以後「書経」と呼ばれるようになった。
(へいじ)
平治:
1159年4月20日〜1160年1月10日。
二条天皇(1143-1165:第78代天皇)の代。
(へいじのらん)
平治の乱:
保元の乱後、1159(平治元)年12月京都に勃発した内乱。
後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。
資料は、フリー百科事典:ウィキペディアなどを参考にしました



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