富士川游先生顕彰碑

  南区霞の広島大学霞キャンパスに建立されている「富士川游先生顕彰碑」です。
富士川游は、1865(慶応元)年広島市安古市町に生れ、22歳広島医学校を卒業して上京、中外医事(新報社)により文筆生活に入る。
25歳第1回日本医学会幹事として活躍、継いで日本医史学会を始め多くの学会の創立を企画して現代医学の黎明期に大いなる役割をなした。
一方上京と共に生命保険医として全国を旅し、先進に関する古文書、墓碑を求めた。31歳吉益東洞、土生玄磧、野坂完山ら先哲の発掘により広島は名医排出の地であるを知り、広島医学会の前進芸備医学会を創立して、後進への先達をした。
39歳日本医学史を著し、恩賜賞に輝き、医学史講座開設のもとをなし斯学の基礎を築いた。この間殊に医道の高揚、医権の伸長に尽し、慈悲心をもって生命ある病者を治すことを教えた。75歳鎌倉に没するまで、厚い信仰心と常に野にあって、自主独立の精神により、広島時代の初心を貫いて、医学、哲学、社会、宗教の各分野に貢献したことは真に偉大というべきである。
           昭和50(1975)年8月5日 広島大学医学部創立三十周年記念事業会富士川游顕彰会建之
(ふじかわゆう)
富士川游:
(1865-1940)
医史学者。安芸国沼田郡安村大字長楽寺の人。幼名:充人。1872(明治5)年藤川を富士川に改姓。広島県病院附属医学校卒業。
日本医史学会の組織化に貢献。和漢の古医書を収集、日本医史学を確立。1898(明治31)年から1900(明治33)年独留学、ドクトル・メジチーネの学位を受ける。1912(明治45)年「日本医学史(1904年著)」で帝国学士院恩賜賞受賞。1914(大正3)年文学博士。1915(大正4)年医学博士。
安佐南区をぶらり散歩した時道を間違えたようで、 安佐医師会館に建立されていた「富士川游顕彰記念植樹・碑」をみて撮影した時に、(わたしは)2006年吉益東洞先生之碑はみて撮影させていただいたのに、同じ広島大学医学部構内に建立されているという「富士川游顕彰碑」は拝見していなかったので、この碑が建立されているという広大霞キャンパスに行って拝見しなくてはと思っていたのです。(2010年)6月になりましたが訪ね、撮影しましたのでこの頁を編集しました。
広島大学医学資料館に富士川游関連資料が展示されていますその中の先生の写真があり撮影していました。今頃になりましたが、この頁に追加しました。
12.03.13更新  10.09.22裕・記編集

10.06.03撮影
広島市南区霞1-2-3  (広島大学霞キャンパス)

10.06.03撮影

10.06.03撮影
顕彰碑は(高層の)広島大学病院の方を向いています

10.06.03撮影

10.06.03撮影
広島大学医学資料館展示の富士川游関連資料



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



広島ぶらり散歩
富士川游先生顕彰碑
富士川游顕彰記念植樹・碑





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送