松田耕平の墓

  南区青崎の向洋墓地に建立されている「松田耕平のお墓」です。
松田 耕平 (まつだ こうへい) 1922-2002
東洋工業第3代目社長。広島東洋カープオーナー。広島県出身。慶応義塾大学卒業。
1970(昭和45)年父・恒次死去後、東洋工業3代目社長就任。当時ロータリーエンジンこそマツダの活路と信じた耕平は、主力車種だったファミリア、ルーチェ、カペラなどにロータリーエンジンを搭載したが、1973(昭和48)年オイルショックによる省エネルギー化への風潮に、「ガソリンをがぶ飲みする」と揶揄されたロータリーエンジンは敬遠され、マツダ車のシェア低下。1977(昭和52)年大蔵省銀行局や通産省の介入及びメインバンク・住友銀行の指導で耕平は代表権がない会長に退く。
広島カープは1949(昭和24)年末に産声を上げましたが、1950(昭和25)年経営危機に陥りました。広島市、市経済界の支援、市民のたる募金などで経営危機はまぬがれたもののチームは万年Bクラスに甘んじていました。
1967(昭和42)年オフ、東洋工業が筆頭株主となり、球団名が「広島カープ」から「広島東洋カープ」に変更、東洋工業がメインスポンサーとなり(父・恒次が球団オーナーとなり)耕平は同時にオーナー代行に就任しました。1970(昭和45)年11月恒次が逝去したことによりオーナーに就任。万年Bクラスだった球団を改革するべく1973(昭和48)年慶大の同窓生・別当薫を監督に招聘、1975(昭和50)年球団初の外国人監督ジョー・ルーツを招聘。ルーツはフロントとの確執で早々に帰国。しかしその後を引き継いだ古葉によって球団創設から実質25年で初優勝を果たしました。野球を愛しカープを愛しアイデアー豊富だった名オーナーだったと(わたしは)思っています。カープの黄金時代をフロントから支え続けた功労が認められ、死去翌(2003)年に野球殿堂特別表彰を受けました。
2009年交流ウォーク探検隊で松田重次郎のお墓があると聞く向洋墓地を訪ねたのです。
広い墓地でしたが先祖の墓参り来られていた方に聞くと即座に答えが返ってきて、松田家の墓地を教えていただきました。松田重次郎、松田恒次のお墓が並んで建立されており、それらの列(の前)西側に耕平のお墓が建立されていましたので、頭を垂れた後撮影させていただきました。
敬称は略しました 09.05.02裕・記編集

’09.05.02.撮影
広島市南区青崎2-21 向洋墓地内松田家墓苑

’09.05.02.撮影

’09.05.02.撮影



「広島ゆかりの人たちのお墓」編


「広島カープ関連」編



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