たけだやまはしあと
武田山橋跡

  安佐南区祇園と西原の間 の安川緑道に建立されている「武田山橋跡・碑」です。
残念なことに、2007(平成19)年1月に設置されというこの石柱にある説明文が、読むには不鮮明になっていましたので内容がわかりませんでした。
武田山につながる道に架かっていた橋だったので、武田山橋と名付けられたのではと(わたしは)思いました。
銀山城は、鎌倉時代の終わり頃、安芸国の守護であった武田氏が築いたと云われる山城です。
武田氏はもとは甲斐国の武士です。安芸国との関わりは、1221年承久の乱で手柄をたてた武田信光(1162-1248)が、安芸国守護職に任命されたことにはじまります。武田氏は、はじめ代理を派遣して統治していましたが、元寇のあった1274(文永11)年に、信光の孫・信時(?-1289)が安芸国に下ってここに住むようになり、以来およそ300年間、安芸地方を支配していました。
標高410.5mの武田山全山にわたる銀山城は、守りの固い城で、戦国時代に中国地方の統一支配を目指して西から攻めてきた大内氏の激しい攻撃にも落ちなかったと伝えられています。しかしその城も、武田氏の勢力の衰えた1541(天文10)年、大内氏の命を受けた毛利元就(1497-1571)らによって落城し、以後は大内氏の支配下におかれました。そして1554(天文23)年、毛利元就が自身の居城として手中に納めています。
安佐南区区政振興課発行「あさみなみ散策マップ:安川ルート」に‘安川と橋をしのぶ石柱’ということで、5箇所、伊予屋原橋、今津橋、鉄屋橋、酒屋橋、豊島屋橋の跡碑が建てられていると紹介がありますが、この武田山橋に関する記述はありませんでした。
この石柱のところで、安川緑道は終わり、根際の処から(現在の)安川が再び地上に現れます。
10.12.05裕・記編集

09.12.12撮影
広島市安佐南区祇園1と西原1の間 (の現在安川緑道)

09.12.12撮影

09.12.12撮影

09.12.12撮影



広島の橋」編



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「旧・祇園町」編





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