(才ノ木神社)標柱、皇紀2600年紀念鳥居、奉納絵馬

  安佐南区中筋の“才ノ木神社”の「標柱」、「皇紀2600年記念鳥居」、「奉納絵馬」を取り上げました。
2009年安佐南区区政振興課発行「あさみなみ散策マップ:古市ルート」を参考にここ才ノ木神社を参拝しました。
拝殿内の奉納された絵馬が天保6(1835)年であることから撮影していました。
2010年参拝した時、境内の標柱に目がいき、刻まれていた田部正壮(1849-1939)元中将の名だったので、撮影し、この頁を編集しました。
2012年参拝した時、鳥居が紀元2600年記念として建てられた事がわかりましたので、この頁に追記しました。
13.01.25更新  10.09.02裕・記編集
(才ノ木神社の)標柱
しめばしら
標柱
神社又は祭場の設備の一種。
参道の入口或いは社頭に建つ一対の柱で、これに「注連縄」を張る。石柱の場合が多い。
標柱の文字は何と刻まれているのだろうかと思ってみたのですが、(わたしの国語力では)両柱とも読めませんでした。四海(しかい=四方の海。天下)を治めるのは神?と思っているとき。
側面をみると第12代廣島市長(1917-1921)だった田部正壮(1849-1939)元中将の名が刻まれていました。標柱が昭和6(1931)年建立ですので、既に広島市長ではなかったので陸軍中将と名乗ったのでしょうが。

10.02.19撮影
広島市安佐南区中筋1-4-18 才ノ木神社

09.12.12撮影


























(才ノ木神社の)皇紀2600年紀念鳥居
  1872(明治5)年に、神武天皇(大和の橿原宮で即位したという)即位の年(西暦紀元前660年)を皇紀元年としましたが、いまは普通用いられません。
1940(昭和15)年が「紀元2600年」にあたることから政府は、1935(昭和10)年「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や皇族関係陵墓の整備など記念行事の計画・推進を進め、「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事はおしなべて神道色の強いものだったようです。
2010年標柱をみて第12代廣島市長(1917-1921)だった田部正壮(1849-1939)元中将の名が刻まれていました。その時この鳥居はよく見ていなかったのです。2012年参拝した時に鳥居をみると皇紀2600年紀念として建てられた事がわかりましたので、撮影し、この頁に追記しました。

12.09.01撮影
広島市安佐南区中筋1-4-18 才ノ木神社 皇紀二千六百年紀念
(才ノ木神社の)標柱奉獻・絵馬
  拝殿内をみると天保六年の奉納絵馬額が掛かっていました。
天保6(1835)年に目が行き約200年も前の奉納額かと撮影しました。何の絵かなと思って額をみると『當社以神木調之  斗酔庵井眠画』とありましたので(才の木神社)当時八幡宮と称していた頃の神社内の神木を以って競馬をやっていたのかな?と思いました。
後日、安古市町誌をみるとこの絵馬にも言及していました『・・・これは斗酔菴井眠(杉山家の祖)が同社の神木をもって調した。』とありましたが、わたしには『神木をもって調した』と云う行為が分かりませんでした。ただ、漢和辞典で調と云う字を引いてみたのですが、15に‘ならす=馴’とありますので、馬を調教する事かなと思い、武士の右手に持っているのが神木を加工した鞭?かもしれないと思いましたが、よくわからないことには変わりありませんでした。
9月2日、東野公民館発行「ふるさとの今昔」をみていると、この絵馬について記述がありましたので、分かりました。
『中筋の杉山家に伝わる古文書によると天保6(1835)年には拝殿も本殿もともに改築されており、その時の木で作ったことを書き添えた武者絵・・・・』とありました。調したとあるのは神木を使って絵馬を奉納したということで、題材は(単なる)武者であったのだろうと理解しましたが。
2017年安芸区の平山神社を参拝した時、この絵馬と同じような構図の絵馬をみたのです。そこで何を題材としているのかいろいろと推測してみたのです。
確信はありませんが、「宇治川の先陣」を題材にしたのではないかと思いましたので追記しました。
  関連頁:(平山神社)奉納・絵馬
17.02.07.更新    10.09.03編集

09.12.12撮影
天保六乙未清月奉獻の絵馬(額)



「神社寺院など」編


「天皇関連碑など」編



広島ぶらり散歩
(中筋)才ノ木神社
  (境内社)稲生神社
  標柱、皇紀2600年紀念鳥居、奉納絵馬
  大正天皇御大典記念狛犬


「古市・中筋附近」編





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