(八木村)北清日露青島三戰役表忠碑

  安佐南区八木の八木小学校校内に建立されている「(八木村)北清日露青島三戰役表忠碑」です。
この石碑は、1900(明治33)年〜1901(明治34)年の北清事変(義和団事件)、1904(明治37)年〜1905(明治38)年の日露戦争、及び1914(大正3)年〜1918(大正7)年の第一次世界大戦に八木村から参加した人々のことを記録に残すために、1915(大正4)年1月八木村の人々によって建てられたものです。
この石碑は、日本が歩んだこれまでの歴史における一つの事実を物語っています。この事実をもとに他の国と戦争をしていたころの社会の様子や歴史などを学習し、ニ度と戦争が起こることがないよう、平和の大切さについて考えましょう。
1992(平成4)年6月広島市教育委員会
(ほくしんじへん)
北清事変:
明治33年事変、義和団事件のこと
(ぎわだんじけん)
義和団事件:
1899(明治32)年〜1900(明治33)年、列強の進出に抗した中国民衆の外国人排外運動。
山東省に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。日本は1万3千の大軍を派遣という。日本では北清事変ともいう。団匪事件。
明治37・8年戦役:
(日露戦争)
1904(明治37)年2月から1905(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
第一次世界大戦: 三国同盟(独墺伊)と三国協商(英仏露)との間の帝国主義的対立や民族的対立などを背景として、ヨーロッパを中心に起こった最初の世界戦争。
1914(大正4)年6月のサラエボ事件が発端となり、ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリアなどの同盟国と、イギリス、フランス、ロシア、日本、アメリカおよび三国同盟を破棄したイタリアなどの連合国とが対戦。
1914年7月28日墺(オーストリア)がセルビアに宣戦布告で開戦。1918(大正7)年11月ドイツの降伏で同盟国側が敗北し、翌(1919)年パリ講和会議でベルサイユ条約が締結された。
英国が日英同盟に基づき、連合国側に立っての参戦を要請。日本政府は1914(大正4)年8月23日ドイツ帝国へ宣戦布告。
11月7日日本陸軍と英軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地・中華民国山東省の租借地・青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日〜11月7日)。
また、日本海軍は、太平洋のドイツの植民地だった南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島、当時は独領ニューギニアと呼ばれた)を攻略、制圧した。
わずかな碑しか見ていないわたしですので、三戦紀念(記念)碑と云えば、日清戦争、北清事変、日露戦争を指すものが多いな〜と思っていましたが、この碑の(教育委員会設置の)説明板を読むと、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦の出征を祈念して建てられたとありました。
石碑の建立が第一次世界大戦が終わらぬ前、大正4(1915)年1月に建てられた事に素早く建てられたのだなと(わたしは)感じました、1914(大正3)年第五師団の一部が宇品から青島に出兵し、10月31日から11月7日の青島の戦いで勝利しています。
この頁を編集している時「北清日露青島三戰役表忠碑」の碑銘がよくわかる画像がありませんでした。その年八木用水を歩いてみていましたので、10月JR上八木駅で下車して八木用水に行く前に八木小学校により職員室で撮影許可を得て撮影していました。また、説明板にあった八木村民によって建之と基礎に刻まれていましたので、撮影しました。いまになりましたが画像を追加し頁を更新しました。
12.01.26更新   10.04.29裕・記編集

10.02.19.撮影
広島市安佐南区八木9-17-1 八木小学校

10.02.19.撮影

10.02.19.撮影

10.10.28.撮影

10.02.19.撮影

10.10.28.撮影

10.10.28.撮影
台座には「明治三十三年北清事變從軍者」など 基礎には「八木村民建之」



軍都・廣島関連施設戦跡」編



広島ぶらり散歩
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