(緑井地區戦歿者)慰霊碑

  安佐南区緑井の専蔵坊山門前に1959(昭和34)年に建立された「 緑井地区戦没者慰霊碑」です。 
「昭和三十四(1959)年五月吉日 緑井地區民建之」の「(緑井地区の戦没者)慰霊碑」です。
(慰霊碑の)根際に明治百年記念として「緑井地区戰歿者御芳名」板が昭和43(1986)年1月大東亜戦争当時の(緑井村)村長・吉村修三の寄附で建立されています。
☆(現在、安佐南区緑井ですが)前身は、1955(昭和30)年7月1日発足の佐東町(川内村・緑井村・八木村の合併)で、それ以前は緑井村でした。
「緑井地区戰歿者御芳名」板を拝見すると、
戊申之役:1名、日清戰争:1名、日露戰争:2名、台湾事変:1名、日華事変:7名。大東亜戰争:98名、原爆公務死:55名(女性を含む)が刻まれていました。
 * ぼしんのえき
戊申之役
一般的には、戊辰戦争といっています。
1868(慶応4)年戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16か月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌(1869)年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確立への途が開かれた。
* 台湾事変とは
『1874(明治7)年台湾の高砂族が海難の琉球人を殺害したことに端を発し、台湾南端の山地で戦い、戦死傷29名、病死者561名を出した。(高砂族を鎮撫)清国と和平条約を結び、清国に対して琉球が日本の領土であることを確認させた。』ことを指すとする資料も見ますが、
この慰霊碑でいう、台湾事変は日清、日露戦役後に記述してあることから、年代的に合いませんので、わたしには分かりません。
八木用水を巡っているのですが、安佐南区区政振興課発行「あさみなみ散策マップ:毘沙門ルート」に専蔵坊の紹介がありましたので、少しばかりの寄り道になりますが立寄りました
。(マップにはありませんでしたが)山門前の専蔵坊敷地内と思う処に「慰霊碑」が建立されていました。根際に緑井地区戰歿者御芳名板があり、戦没者のお名前が刻まれており、その中に『原爆公務死』の方々のお名前も刻まれており、この中には多くの女性のお名前も含まれていました。女子挺身隊員として動員学徒として被爆された方々だろうと思いましたが詳しいことは(わたしには)分かりませんが、原爆関連の慰霊碑でもあるということで原爆関連慰霊碑の中に入れました。
 10.11.02裕・記編集

10.09.09.撮影
広島市安佐南区緑井4-34-17 (専蔵坊)

10.09.09.撮影

10.09.09.撮影

10.09.09.撮影

10.09.09.撮影
敬称は略しました



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
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