さいがんじやまふんぼぐん
西願寺山墳墓群

  安佐北区口田で発掘保存されている「西願寺山墳墓群」(一部)です。
史跡 西願寺山墳墓群       広島県指定:昭和49(1974)年4月25日
  太田川下流左岸の丘陵尾根上に築かれた弥生時代後期と考えられる墳墓群で、丘陵頂部から尾根の平坦な部分5か所にわたって分布していました。
現在は、方形台状に削りだされた下端部2か所の竪穴式石室6、箱式石棺1、土壙(どこう)14が保存されています。
竪穴式石室は、太田川から運びあげた径20〜30pの円礫(えんれき:河原石)で築き、石室上面がひろがり、蓋石の存在しない特異な形態です。石室内や墓域内から鉄器類[剣・鑿(のみ)・斧・鎌]などや土器類が出土し、特に鉄斧は扁平な鋳造品で、わが国では類例が少ないものです。弥生時代終末から古墳時代初頭(3世紀)にかけての地域的な特色の強い集団墓(共同墓地)です。現在西願寺山北遺跡は消滅しています。
教育委員会の資料には。
『これらの遺跡は、弥生時代から古墳時代の初めにかけて営まれた共同墓地と考えられますが、その中にも特定の個人を厚く葬る墓が出現しているようです。
これは、階級や身分が発生して、次第に権力者が現れてきたと言われるその頃の社会を知るうえで、重要な手掛かりとなっています。』と云っています。
ザックリと云うと太田川デルタに発展してきた広島で、毛利輝元の広島城築城から歴史がはじまったといえる広島市ですが、縄文、弥生古墳時代は、この付近の地が中心と云ってもいいのかもしれません、なにせここより南ではありますが(卑弥呼が魏帝からもらったという説がある)三角縁神獣鏡が出てきた地域なのです。
この墳墓群は、1972(昭和47)年からの広島県住宅協同組合の宅地造成で発掘調査が行われ、部分的に保存されてはいますが、広島の古代歴史遺産を壊したといわれても甘んじて受け入れなければならないのだろうと思いながら・・・編集がなかなか進まず、撮影からもう少しで1年にもなろうという今(2009年)になって編集をまとめました。
 09.10.01裕・記編集

08.12.25撮影
広島市安佐北区口田2-27

08.12.25撮影
残された2か所のうちの上段側

08.12.25撮影

08.12.25撮影

08.12.25撮影
残された2か所のうちの下段側

08.12.25撮影

08.12.25撮影

08.12.25撮影

08.12.25撮影
河原石を太田川から運びあげたと云われていますので、どういう位置関係か太田川をみてみました



「古墳遺跡遺構など」編



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