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安佐北区可部の願船坊に建立されている「川本君忠死紀念之碑」です。 |
「征露之役陸軍歩兵上等兵山本岩吉君・・・・」ではじまる碑文はこの碑の(両)側面に刻まれています。
全文はわたしには読み下せませんでしたが、山本さんは、(中国遼東半島)南山の戦いで1904(明治37)年亡くなった事、1905(明治38)年勲八等功七級に叙せられた、と刻まれている事は分かりました。 |
(にちろせんそう)
日露戦争: |
1904(明治37)年2月から翌(1905)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。 |
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南山の戦いは1904(明治37)年5月25日〜5月26日、遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われた、ロシア陸軍と日本陸海軍の戦いです。ロシア軍は機関銃などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となり、日本軍は倍する兵士を擁していたにもかかわらず1/6弱の兵員を失ってしまいました。
緑江会戦の後、日本陸軍第二軍は遼東半島に兵を進めました。ロシア陸軍は遼東半島の隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築していました。日本陸軍が近代的な敵陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてで、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していました。しかし、第四師団による攻撃が金州城に対して開始され、失敗に終りました。
第一師団からの増援2個大隊を加えた三回目の攻撃によって金州の攻略が完了しました。その後、南山に対して攻撃が加えられ、金州湾からの海軍の艦砲射撃が援護したものの、凄まじい損害を受けました。しかし日本軍の攻撃で、砲弾の尽きたロシア軍は撤退を開始。第二軍は南山を占領して一応の勝利を収めました。 |
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願船坊の本堂に回る前に目にした石碑でした。碑面に「忠死」の文字が刻まれていましたので、日清戦役か日露戦役で亡くなった山本さんの碑なのだろうと思い碑文をみると日露戦争でなくなった事が分かりました。 |
10.08.01裕・記編集 |