(可部招魂社建立)義勇奉公・碑

  安佐北区可部町下町屋の可部招魂社に建立されている「義勇奉公・碑」です。
この義勇奉公・碑は、明治45(1912)年5月中原村建立で現在可部招魂社社殿根際に建っています。
刻まれた文字をみれば、明治二十七八年戦役 明治三十三年事変 明治三十七八年戦役で亡くなった方々のお名前を刻んである石碑です。
明治27・8年戦役:
(日清戦争)
1894(明治27)年8月から翌(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌黄海威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月下関で講和条約締結。
(ほくしんじへん)
北清事変:
明治33年事変、義和団事件のこと。(この碑では明治33年清國事変と刻んでいます)
1899(明治32)年〜1900(明治33)年、列強の進出に抗した中国民衆の外国人排外運動。
山東省に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。日本は1万3千の大軍を派遣という。日本では北清事変ともいう。団匪事件。
明治37・8年戦役:
(日露戦争)
1904(明治37)年2月から1905(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
この可部招魂社が建立されていることを知りましたので、訪ね、社殿根際のこの碑をみましたので撮影しました。
この義勇奉公・碑の根際に砲弾がありましたので、砲弾が乗っている碑を他所で見たことがありましたので、この碑の上にあったものかなと最初思いましたが、碑の形からこの碑の一部ではなく、(いまは無い?)他の碑に乗っていた砲弾かなと(わたしは)思ったのですが。
 10.10.04裕記・編集
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10.07.23.撮影
広島市安佐北区可部町下町屋  可部招魂社

10.07.23.撮影

10.07.23.撮影
砲弾  (台座)義勇奉公 (碑銘)従軍者氏名

10.07.23.撮影























 










































































































































































































   ※媾和(コウワ)=講和

10.07.23.撮影






















































































10.07.23.撮影
(中原村略沿革)
1889 明治22年4月1日 市町村制施行。当時中原村は、高宮郡に属した村でした。
1898 明治31年10月1日 高宮郡・沼田郡が統合し安佐郡が成立、安佐郡に属する中原村になりました。
1942 昭和17年7月1日 可部町・中原村が合併して、(新しい)可部町が発足しました。



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「可部町」編





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