帆待川の(神武天皇)伝承

  安佐北区可部の辺りに伝わる「帆待川の(神武天皇)伝承」についてこの頁で取り上げました。
帆待川(ほまちがわ)の伝承    平成6(1994)年7月吉日  帆待川を守る会
往古瀬戸内の海は、現在の可部盆地辺りまで入り込んでいたと云われています。
このことは、福王寺山麓の扇状地に、海であった事を示す「汀線」の跡が見られ、海産漁貝で構成された「貝塚」の跡が発見されたことから、実証されています。
初代天皇として知られる神武天皇(じんむてんのう:即位前は、神倭伊波礼琵古命かんやまといわれひこのみこと、と云う)が、日向の国から軍旅を整えて大和への海路の途中、安芸の国・埃宮(えのみや)に立ち寄られた故事の地が、古来四日市を中心にしたちとして、伝承されています。
ここ帆待川もその一つの中に入ります。帆待川は、別名を帆巻川ともいいます。神武天皇は、広島湾の奥深く、この四日市の帆待川を遡り、舟山の麓に舟を繋ぎ、そして舟山に登られました。
帆待川は、天皇の御来可を待つ意味で、帆巻川は、帆を巻き上げて出発された川という意味ともとられています。
最初に登られた山を元は「貴船山(きふねやま)」と呼んでいましたが、いつの頃からか貴を取って「船山」と称するようになったと伝えられています。古来、この地方の人びとは、帆待川を“神武天皇ゆかりの聖なる川”として敬い、親しみ、川からもまた限りない恩恵を受けてきました。由緒あるこの川を守り、育てていくことは、何よりも大切な事と思います。
四日市(よっかいち)は「郡中国郡志」によると『太田川と大毛寺川の流域に位置する。地名の由来は、毎月4日に市が立った事による』と紹介しています。
(せんじょうち)
扇状地:
川が山地から平地へ流れ出る所にできた、扇形の堆積(たいせき)地形。川の勾配(こうばい)が急に小さくなり、流水の運搬力が急減するため、上流から流れてきた砂礫(されき)が堆積してできる。沖積扇状地。
(ていせん)
汀線:
海面または湖面と陸地との境界線。なぎさの線。みぎわせん。
(かいづか)
貝塚:
古代人が捨てた貝殻が層をなして積もった遺跡。日本では縄文時代に属するものが代表的で、貝殻のほかに鳥獣や魚の骨、土器・石器・骨角器などを含み、人骨も発掘されている。
2010年4月交流ウォークが終わって、広島新四国八十八ヶ所霊場第20番医王寺を訪ねる途中でみた説明板です。読むと昔は、この辺りまで海であり、神武天皇の東征につながる伝承が残っているのかと思ったのです。今(2011年)回「(原爆投下時落下傘落下地点)原爆犠牲者之碑」を訪ね頭を垂れ撮影することが主目的でしたが、この「帆待川の伝承」につながる地を訪ねることも目的にしていましたので、JR可部駅を降りて、まずこの伝承説明板の処を訪ね撮影しました。慰霊碑に頭を垂れた後ぶらり散歩しながら可部駅に帰っている時、可部5-7付近でも同じ説明板が設置されていましたので撮影しました。
11.07.23.裕・記編集

11.06.25撮影
広島市安佐北区可部1-5付近 (説明板と帆待川)

11.06.25撮影
帆待川が太田川に流れ込む付近

11.06.25撮影

11.06.25撮影
安佐北区可部5-7付近 (説明板と帆待川)

11.06.25撮影

11.06.25撮影



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